2016年8月6日土曜日

書いたもの(新しい順)



【単著】

『新宗教と総力戦―教祖以後を生きる』、単著、2015年9月、名古屋大学出版会、368p.
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【共著・編著】





















『日本宗教史のキーワード―近代主義を超えて』、共編(大谷栄一、菊地暁)、2018年8月、慶應義塾大学出版会、450p.
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『近代日本の偽史言説―歴史語りのインテレクチュアル・ヒストリー』、共著(小澤実編)、2017年11月、勉誠出版、392p.(執筆担当部分:第3章「近代竹内文献という出来事―〝偽史〟の生成と制度への問い」、pp.90-120 (31p.))
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『学問をしばるもの』、共著(井上章一編)、2017年10月、思文閣出版、384p. (執筆担当部分:「特高警察と民衆宗教の物語」、pp.95-109 (15p.))
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『撰集 近代日本における宗教と科学の交錯』、共編(金承哲、T・J・ヘイスティングスほか5名)、2015年5月、南山宗教文化研究所、657p.
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『ザ・タイガース研究論』、共著(磯前順一、黒崎浩之共編)、2015年2月、近代映画社、210p.(執筆担当部分:「ザ・タイガース 紙媒体露出記録リスト」水内勇太ほか4名と共著、pp.150-167)
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 『語られた教祖―近世・近現代の信仰史』、 共著(幡鎌一弘編、宮本要太郎ほか5名)、 2012年3月、法藏館、270p.(執筆担当部分:第2章「新宗教文化の脱教団的展開―教祖研究の〈作法〉をめぐって」、pp.29-60(32p.))
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『聖地再訪 生駒の神々―変わりゆく大都市近郊の民俗宗教』、共著(宗教社会学の会編、飯田剛史、三木英ほか11名)、2012年3月、創元社、278 p.(執筆担当部分:コラム「被調査者の反応、そして拾い損ねたことどもについて」、pp. 258-259(2 p.))
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『憑依と近代のポリティクス』、共著(川村邦光編、ほか5名)、2007年2月、青弓社、245p. (執筆担当部分:第2章「歴史の記述と憑依―飯降伊蔵の「おさしづ」と親神共同体をめぐって」、pp. 87-113(27p.))
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【論文】

「世界連邦主義と大本―人類愛善-平和運動の軌跡(上)」、単著、2019年3月、大谷栄一編『戦後日本の宗教者平和運動のトランスナショナル・ヒストリー研究』佛教大学社会学部大谷研究室、pp.121-133.(13p.)

「神国〈キッチュ仏教〉の世界―初期「生長の家」と「釈迦」たち」、単著、2018年10月、『現代思想』46巻16号、pp.243-256.(14p.)

「近代日本と民衆宗教という参照系―安丸良夫における「論理」と「活力」」、単著、2017年11月、『日本史研究』(日本史研究会)663号、pp.42-62.(21p.)
 本稿は、安丸良夫の思想史研究のなかでもきわめて重要な位置を占める、民衆宗教についての諸テクストを批判的に読みなおし、新たな展開可能性を探ろうとするものである。安丸のテクストにおいては、日本の民衆と民衆宗教とのあいだに、提喩的な関係が見出されていた。そうであれば、近代日本と民衆宗教との関係を問うことは、近代日本と民衆との関係を問うということにもなるはずだろう。こうした提喩法が切りひらく視座と、その問題性とをともに点検する必要がある。
 まず、「つきつめ」「論理」「活力」という、相互に連関しあった三つの語を手がかりとして、安丸民衆宗教論の構造を浮かび上がらせ、その可能性の幅を検証する。安丸の民衆宗教論は、宗教がもつ不穏な潜勢力と手を結んでエリート主義的な歴史意識を切り裂き、歴史の主体についての観念の再編を要求するものであり、通俗道徳的エートスのもつ両義性の発見、その「つきつめ」による民衆宗教の「論理」の抽出は、日本の歴史学に決定的な転換をもたらした。だが、つねにすでに失われた「本当の願望」への執着が、「論理」の外部への視野を制限してしまったことは否定できないだろう。
 他方で、安丸は人びとが発揮する不定形な「活力」への関心を持続させていた。それは民衆宗教運動を存立させ、駆動させるものでありながら、彼にとっては「論理」の領域を侵食する脅威ともなる。安丸はこの「活力」を前に立ち止まり、充分に分節化することができなかったといえるかもしれない。だが、「論理」と「活力」の緊張関係から、「歴史の縦深的な構造」の解明へとあらためて出立することができるはずだ。
 民衆宗教の集団性をつくりあげる「活力」が、教祖たちの「論理」とどのように切り結び、それを編成替えしていったのか、そしてそこから近代社会の全体性はどのように展望しうるのか。それは、残された者が引き受けて考えていくべき課題である。

"Revisiting the Rush Hour of the Gods: The People’s Religions of Après la Guerre and Postwar Japan", translated by Murayama Yumi, Asian Journal of Religion and Society, Korean Association for the Sociology of Religion, Volume 5 , Number 2, July 2017, pp.91-120.(30p.)

「霊魂をとらえ損ねる―神の声から考える民衆宗教大本」単著、2015年12月、『人文學報』(京都大学人文科学研究所)108号、pp.143-157.(15p.)
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 本稿は, 近代日本において「神の声を聴く」という営みがどのような宗教史的・思想史的可能性をもちえたのかを, 大本を事例として検討するものである。大正期大本の思想・実践は, 異端的な神話的世界を語り出しながら, 近代国家が排除した霊魂との直接的交流の道を開くものであった。しかしそれは, 霊魂を統御するという志向性を, 近代天皇制ないし靖国神社などと共有していた部分もあったのではないだろうか。鎮魂帰神法は, 霊魂を発動させて, 鎮静させ, 序列化する試みといえるのだが, それは逆にいえば, 鎮静化させ, 序列化するための発動であり, 高級霊/低級霊, 立替立直/病気治しのヒエラルキーを確認・創出するものでもあったのだ。ただし, 実践のレベルではそのプロセスには不確定領域が広がり, 統御を逃れ出る霊魂の運動を可能にすることになる。出口王仁三郎や浅野和三郎の意図する秩序は越境する霊魂と過剰な欲望によって裏切られてしまうのだ。国家主義的神道の秩序世界を掘り崩す可能性を内包していたのは, じつは王仁三郎の思想・実践そのものではなく, 人びとの野放図な欲望の法‐外さではなかったか。そして, その欲望を賦活する仕掛けとして, 鎮魂帰神法システムは再評価しうるのではないだろうか。近代日本に生きた多くの人びとは, おそらく天皇制国家を下支えする心性と, そこから逸脱しようとする欲望の双方を抱えていたのであり, 鎮魂帰神法の思想と実践は, その両義的なありようを浮かび上がらせ, そこにはらまれる緊張関係を開示してみせるものだったということができる。こうして, 鎮魂帰神法が霊魂をとらえ損ねる営みであったというところにこそ, 近代天皇制国家の論理へと還元されえない民衆宗教としての大正期大本の可能性を読み取ることができるのではないだろうか。

「ソウルメイトは二重橋の向こうに―辛酸なめ子における皇室とスピリチュアリティ」、単著、2015年9月、『人文學報』(京都大学人文科学研究所)107号、pp.103-129.(27p.)
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 本稿は、漫画家・エッセイスト辛酸なめ子の諸作品を読み解くことを通じて、現代日本における象徴天皇制やスピリチュアリティ文化と批判的に対峙する作法について思考するものである。現在、天皇は非政治性を建前とした「象徴」として、またスピリチュアリティ文化は過酷な競争社会を生きる現代人につかの間の「癒し」を提供するものとして、柔和で無害な相貌で存在しているようにみえる。だが、これらの文化/制度は、それを中心にして形成される「空気」のなかで、ときとして暴力性や抑圧性を露わにすることがある。このような暴力性・抑圧性に対する批判は多いが、外部的な視点に立ったイデオロギー批判に代表される従来の批評的言語は、ポストモダンな天皇制やスピリチュアリティ文化を前に、有効性を喪失してしまっているように思われる。そのようななか、興味深い批評の言葉を創出しているのが、辛酸なめ子の作品である。なめ子は、作品のなかで、皇室やスピリチュアリティ文化を題材として積極的に取り上げ、それらを戯画化することでユーモラスな世界を創造する。それは、外部者の立場から“本当のこと”を突きつけるという批判のスタイルが通用しない領域が広がっているなか、天皇制やスピリチュアリティ文化を構成する「空気」に亀裂を入れる批評の言語の可能性を示すものといえるのではないだろうか。

「「宗教」のなかの聖戦/聖戦のなかの「宗教」―天理教の〈ひのきしん〉と勤労報国」、単著、2013年9月、『日本思想史学』(日本思想史学会)45号、pp.181-198.(17p.)

「富士講的妄想力の近代―丸山教と問い」、単著、2013年9月、『現代思想』(青土社)41巻14号、pp.122-131.(10p.)

「宗教文化は誰のものか―『大本七十年史』編纂事業をめぐって」、単著、2013年3月、『日本研究』(国際日本文化研究センター)47号、pp.127-169.(43p.)
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 異なる立場の人びとが「知の協働制作者」として直接的に接触・交渉しあいながら宗教の歴史を描いていく営みを協働表象と名づけ、その意義を明らかにしようとするものである。その事例は、信仰者と宗教研究者が集まって1960年代に行われた『大本七十年史』編纂事業である。大本という宗教団体の70年にわたる歴史を描くというこの事業は、大本に集った人びとの過去だけでなく、現在と未来のありように密接にかかわるものであった。新宗教の矛盾や葛藤に満ちた歴史のなかに研究者が介入し、多様な信仰、多様な経験に秩序を与え、そのざわめきを鎮めていくことは、来るべき信仰や実践のありように規範を提示していくことでもある。彼らによって構築される大本の「本質」は、そこに回収されきらない多様な歴史的経験を排除するか、副次的なものとして劣位に置くことになる。だが、古参の信徒が抱えるそうした歴史的経験や、史料の読解よりも「本質」を優先させる物語の過剰にたいする若手研究者の反発は、首尾一貫した滑らかな歴史が内包する暴力性を浮き彫りにするのである。

「戦前期中山正善における原典・収集・伝道―宗教的世界の構築とその政治的位置をめぐって」、単著、2010年10月、『日本思想史研究会会報』(日本思想史研究会)27号、pp.65-94.(30p.)

「マヨネーズと両義性」、単著、2010年7月、『Cultures/Critiques』(国際日本学研究会)2号、pp.42-67.(26p.)

「飯降伊蔵と「おさしづ」の場―「親神」共同体の危機と再構築」、単著、2008年6月、『宗教研究』(日本宗教学会)356号、pp.143-166.(24p.)
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 天理教をめぐる従来の歴史的研究では、1887年に教祖の中山みきが"現身を隠す″と、親神への信仰によって結びつけられた共同体は合法的な宗教活動の道を探り、その過程で、国家権力への妥協・迎合が露骨に行われるようになったといわれてきた。こうした見方は一面では正しいが、国家協力の事例が強調される一方で、そうしたものの基盤となる、日常的な信仰の営みが見過ごされてきたのではないだろうか。本稿は、みきに代わって親神のことば=「おさしづ」を語り、信徒たちを指導した本席・飯降伊蔵を取り上げ、彼が「おさしづ」を語るにいたるプロセスを跡づけるとともに、信徒たちに注視される彼の心身や語りがどのように共同体を再構築し、信仰を再生産していったのかを明らかにする。伊蔵の「おさしづ」は、親神の意思として観念的に認められただけではなく伊蔵の身ぶりや声、病、語りのことば遣いなどが絶えずみきの記憶を喚起し、さらにそれらを変化させながら信徒たちの信仰を獲得していったのである。

「総力戦と「革新」する天理教」、単著、2008年3月、『近代日本における表象と語り』(平成18‐20年度文部科学省科学研究費補助金基盤研究(B)[家族写真の歴史民俗学的研究]中間報告書・課題番号18320141、研究代表者:川村邦光)、pp.159-227.(69p.)

「天理教の戦争と「真情」のポリティクス―アジア・太平洋戦争期における「ひのきしん隊」の実践と信仰」、単著、2007年12月、『日本思想史研究会会報』(日本思想史研究会)25号、pp.22-42.(21p.)

「教祖の〈死〉の近代―中山みきの表象=祭祀をめぐって」、単著、2007年3月、『大阪大学日本学報』(大阪大学大学院文学研究科日本学研究室)26号、pp.87-104.(18p.)

「歴史の記述と憑依―天理教における「おさしづ」と本席体制」、単著、2006年2月、『文化/批評』(文化/批評[cultures/critiques]編集委員会)冬季号、pp.59-80.(22p.)

「飯降伊蔵論―「おさしづ」と本席体制」、単著、2005年3月、『文化/批評』(文化/批評[cultures/critiques]編集委員会)春季号、pp.291-331.(41p.)


【研究ノート】

「戦後大本の平和運動をめぐる覚え書」、単著、2019年3月、『佛教大学総合研究所紀要』(佛教大学総合研究所)26号、pp.19-26.(8p.)

 大本は、1950〜60年代における日本の宗教者平和運動のなかで、もっともアクティヴな活動をおこなった集団のひとつである。世界連邦運動と原水爆禁止運動に代表される彼らの活動が、戦前期における聖師・出口王仁三郎の思想・実践を受け継いだものであることはよく知られている。だが、その戦前ー戦後の連続性がいかなる葛藤を孕み、戦後の政治状況でどのような意味をもつものであったのかは充分に認識されていない。本稿では、大本の平和運動をめぐる従来のナラティヴを批判的に検討し、この問題にとりくむための予備的な考察を行っている。

「民衆宗教、あるいは帝国のマイノリティ」、単著、2018年10月、『日本思想史学』(日本思想史学会)50号、pp.3-11(9p.)

「教祖の家族写真をめぐる覚え書」、単著、2016年3月、『Cultures/Critiques』(国際日本学研究会)別冊、pp.378-390.(13p.)

「協働表象のためのノート―金光教と民衆宗教論の接触と交渉を中心に」、単著、2010年10月、『東アジアの思想と文化』(東アジア思想文化研究会)3号、pp.53-70.(18p.)

「安丸良夫と「民衆」の原像―『出口なお』について」、単著、2006年3月、『大阪大学日本学報』(大阪大学大学院文学研究科日本学研究室)25号、pp.107-125.(19p.)


【研究史】

「民衆宗教研究の現在―ナラティヴの解体にむきあう」、単著、2017年9月、『日本思想史学』(日本思想史学会)49号、pp.54-67.(14p.)


【書評】

「川橋範子・小松加代子編『宗教とジェンダーのポリティクス : フェミニスト人類学のまなざし』」、単著、2018年6月、『宗教と社会』(「宗教と社会」学会)24号、pp.134-139.(6p.)

「青野正明『帝国神道の形成―植民地朝鮮と国家神道の論理』を読む」、単著、2016年11月、『東アジアの思想と文化』(東アジア思想文化研究会)8号、pp.184-191(8p.)

「岩田文昭著『近代仏教と青年―近角常観とその時代』/碧海寿広著『近代仏教のなかの真宗―近角常観と求道者たち』」、単著、2016年6月、『宗教と社会』(「宗教と社会」学会)22号、pp.43-46(4p.)

「書評 塚田穂高著『宗教と政治の転轍点―保守合同と政教一致の宗教社会学』」、単著、2016年5月、『近代仏教』(日本近代仏教史研究会)23号、pp.193-197.(5p.)

「書評 村上興匡・西村明編『慰霊の系譜―死者を記憶する共同体』」、単著、2015年9月、『近代仏教』(日本近代仏教史研究会)22号、pp.75-77.(3p.)

「書評 Paul L. Swanson, ed., Pentecostalism and Shamanism in Asia」、単著、2014年6月、『宗教研究』(日本宗教学会)88巻1号、pp.220-226.(7p.)
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【討議・座談会】

「討議 歴史としての神道―神道の可能性をめぐって」、伊藤聡、昆野伸幸、斎藤英喜氏と共著、2017年1月、『現代思想』(青土社)2017年2月臨時増刊号、pp.172-198.(17p.)


【新聞記事】

「安丸良夫さんからの宿題に」『京都新聞』2017年4月14日付


【事典項目】

「修行」「守護神(守護霊)」「神像・神体」「断食」、単著、pp.847-848、848-850、857-859
「瞑想」、吉見由起子と共著、pp.895-896
「アイヌ」、川村邦光と共著、pp.437-456
以上、山折哲雄監修『宗教の事典』、2012年10月、朝倉書店、919p.


【資料紹介】

「南山宗教文化研究所「孝本貢文庫」について」、単著、2013年6月、『南山宗教文化研究所研究所報』(南山宗教文化研究所)23号、pp.30-45(16p.)
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【解説など】

「解説・宗教者は「宗教」の淵を覗く」、単著、2012年2月、『コンフリクトの人文学』(大阪大学グローバルCOEプログラム・コンフリクトの人文学国際研究教育拠点)第4号、pp.235-241.(7p.)


【ワークショップレポート】

「シャーマニズム研究から歌の人間学へ―痛みの声を聴く耳を育む試み」、単著、2012年3月、『Cultures/Critiques』(国際日本学研究会)臨時増刊号、pp.149-156.(8p.)

「台湾キリスト教への一視座―藤野陽平『台湾における民衆キリスト教の人類学』合評会」、長澤志穂氏と共編、2014年5月『南山宗教文化研究所研究所報』(南山宗教文化研究所)24号、pp.26-39(14p.)
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【講演記録】

「教祖論は再-開する―新たな関係の生成へ向けて」、単著、2013年6月、『大セレポート』(金光教大阪センター)第3号、pp.2-6.(5p.)


【その他】

「「職場の歴史をつくる会」関連年表」竹村民郎編『〔編集復刻版〕「職場の歴史」関係資料集』六花出版、2017年11月、pp.17-20. (4p.)

「みちのものがたり キリスト街道 青森県:神の子イエスここに眠る!?」『朝日新聞be』2017年7月15日付、でコメント掲載

「新書介紹 『新宗教と総力戦―教祖以後を生きる』/永岡崇」、単著、2016年12月、『臺灣佛教研究』5巻2期


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