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2020年11月26日木曜日

『宗教文化は誰のものか:大本弾圧事件と戦後日本』(発売中!)を(自分で)薦める(その3)

 (その2)を書いてから少々間が空いて、その間に本が発売された。書評サイトのAll Reviewsさんで「あとがき」の最初の部分を掲載してもらったので、よろしければご一読を。

このブログが売り上げにつながっている気配はとくにないが、とりあえず誰に迷惑をかけるわけでもなし、気が向くかぎりもう少しつづけてみようと思う。

夏ごろに出た『「ぞめき」の時空間と如来教:近世後期の救済論的転回』(法藏館)の著者石原和さんは、「民衆宗教」という概念を自覚的に引き受けて研究を進めている現代ではきわめて数少ない若手研究者であり、もっと数少ない如来教研究者でもある。さてこの本で、石原さんはこれまでの民衆宗教研究が教団という枠組みに縛られてきたことを批判している。たとえば最近は近世の宗教社会史の研究が大きく進展して、単一のカテゴリーに収まらない多様な宗教活動の実態が論じられているのに、如来教は「民衆宗教」という特異なカテゴリーに囲い込まれているせいでその潮流からとりのこされてしまっているという。それで、石原さんは如来教を近世名古屋の宗教社会のなかに位置づけて論じなおすことを提案するのである。

たしかに民衆宗教研究、あるいは新宗教研究も、教団単位で議論する(あるいは教祖を個人として切り取る)というクセからなかなか抜け出せない。僕はけっこう前から、教団の「内」の人と「外」の人との対話とか交渉とかという問題に関心をもっていて、いろいろと理屈をこねまわしてきた。現時点での見解が今回の本で示した「読みの運動」とか「協働表象」といった議論ということになるわけなのだが、こういう問題に意識が向かうのは、新宗教(あるいは民衆宗教)を対象としているから、というところはあるかもしれない。これまで自分がある程度くわしく調べてきたのは天理教と大本だが、その過程では教団の「中」の人間か、「外」の人間か、という点がつねに意識されているように思う(自分も、教団の人も、研究発表の聴衆や論文の読者も、それぞれにそれを意識しているのだ)。そうであるからこそ、「内」と「外」の境界線を越えるとか越えないとかつなぐとかつながないとかいうことに重要な意味があるように思うわけだ。

このことは、日本社会で長くマジョリティでありつづけてきた仏教の場合と比較すれば顕著だろう。京都観光で清水寺を訪れ、寺院墓地で先祖の墓に手を合わせても、「あの人、仏教徒らしいよ」などと意味ありげな陰口をささやかれることはない。したがって、たとえば親鸞や道元についてなにか書くとしても、「お前は仏教徒として書いているのか? そうでないのか?」と問いただされることは(たぶん)あまりないのではないだろうか。「内」と「外」の境界線がないわけではないけれども、新宗教・民衆宗教の場合にくらべれば曖昧なのである。とすれば、仏教史の研究者からすれば、「協働表象」うんぬんというようなことはたいして意味のない話となるのだろうか、あるいはまたべつの意味をもってくるだろうか。そのへんは、その筋の方々のご意見をうかがってみたいような気もする。

さきほどの石原さんに戻ると、彼は近代的な教団という枠組みが確立する以前、如来教(と後に呼ばれるようになるもの)が生成する場をとりあげることで、新たな民衆宗教研究の道筋を探ろうとしているのだろう。他方、本書はというと、むしろ教団という仕組み・制度が抜きがたく存在していることを前提としたうえで、その境界を動揺させ、流動化させる動きに注目している。方向は違えど、どちらも教団の枠組みを自明視した民衆宗教研究の乗り越えをめざしているのであり、それが現在の民衆宗教研究のトレンドなのだといえようか。

ただし、僕の場合は既存の民衆宗教研究や「民衆宗教」という概念そのものにたいしてかなり両義的な姿勢をとっている。教団によって提供された資料に依り、教祖の独創性・特異性を過度に強調したナラティヴに多くの問題があることはたしかなのだが、そこで語り出された近代へのクリティカルな視角をも否定してしまうのでは、たらいの水と一緒に赤子を流す、ということになりかねない。手前味噌だが、以前僕はある座談会でつぎのようにのべた。

従来のナラティヴ―マルクス主義でも、民衆史でも、一国史観でもよいのですが―を単純に廃棄するのではなく、それを読み抜いていくという作業をしなければ、人文学の批判性が失われ、素朴実証主義の泥沼にはまってしまうのではないかと。 (大谷栄一・菊地暁・永岡崇「座談会 日本宗教史像の再構築に向けて」『日本宗教史のキーワード:近代主義を超えて』慶応義塾大学出版会、2018年

そんなわけで本書で試みようとしたのは、自分なりに「民衆宗教」をめぐる言説を「読み抜いていくという作業」をつうじて、新たなかたちの権力論を構想することだった。ちょっと大げさか。でもまあ、少なくともその方向に歩き始めたということで。どんなふうに?ということについてはまた次回に。(つづく)

2020年10月20日火曜日

『宗教文化は誰のものか:大本弾圧事件と戦後日本』(発売中!)を(自分で)薦める(その2)

この本の内容を一番シンプルに表現するなら、副題の「大本弾圧事件と戦後日本」というのが適切だと思う。大本弾圧事件、いわゆる第一次・第二次大本事件は戦前の出来事なのだが、それを戦後日本という時空間のなかに置きなおして考えてみようというのがひとつのミソである。

大本は、近代日本の新宗教のなかでももっとも有名なもののひとつで、その歴史を分析した研究も多く存在しているのだが、そのほとんどは戦前で終わっている。出口なお・王仁三郎という二大カリスマ、そして二度の弾圧事件のインパクトが大きすぎて、戦後の歩みは後景化してしまっているのだ。しかし、なおや王仁三郎、弾圧事件などについての私たちのイメージは戦後に形づくられたものなのだから、それは戦後史の問題でもある。そのイメージの形成過程を追っていくと、信仰の有無を越えた多様な人びとが過去の記憶や戦後社会の矛盾と格闘し、新たな宗教文化を作り上げていったさまが浮かび上がってくる。

ここであらためて、版元ホームページの内容紹介文をあげておこう。

信仰の “内か外か” を越えて ——。最大の宗教弾圧事件の記憶は戦後、いかに読み直され、何を生み出してきたのか。教団による平和運動を導くとともに、アカデミアにおける「民衆宗教」像の核ともなった「邪宗門」言説の現代史から、多様な主体が交差する新たな宗教文化の捉え方を提示。

ここで「邪宗門」言説とあるのは、高橋和巳の小説『邪宗門』を念頭に置いたものである。全共闘世代の人には説明不要だと思うが、この作品で高橋は大本弾圧事件を元ネタにして架空の教団を造形し、国家の弾圧に翻弄された彼らが最終的に「邪宗」としてのレッテルをみずから引き受け、滅んでいく姿を描ききった。この作品に典型的にみられるように、大本は弾圧という出来事がもつドラマ性のゆえにこそ戦後社会の注目を集めた。その注目は教団の人びとを勇気づけもしたが、その一方で教団を困難な状況に導くことにもなるのである。本書は「邪宗門」言説を再生産しようとするものではなく、むしろ「邪宗」や「異端」を欲望するその言説自体の構築過程を問い、その歴史的存在性格を浮かび上がらせようとするものだ。

そのために、本書では信仰共同体の内と外、戦前と戦後をつなぎながら、広い意味での宗教文化の展開をとらえようと試みている。そのための方法的工夫が「読みの運動」と「協働表象」という自作の概念である。このうち「読みの運動」のほうは、前著『新宗教と総力戦』のなかでも実は出していた。出してはいたが、ほとんど注目されることもなく、まるで浸透していない。少々切ないが、無理のないところもあった。前著は天理教という一教団の歴史をひたすら追うものだったから、「読みの運動」といっても教団の構成員が先行する信仰者の遺産を読みなおして新たな信仰を生み出していくという、ごく当たり前のことを言っているにすぎなかったともいえる。わざわざ新たな概念を提起する必要性が伝わらなかったのではないかと思う。

言い訳がましくなることを承知で説明するなら、おそらくそれは前著が長い博士論文の前半部分を切り取って作りあげたものであったことに起因している。後半部は信仰共同体の枠を越えた宗教文化の広がりを扱おうとしたものであったから、「読みの運動」という概念ももう少し有効性を発揮したはずだったのである。とはいえもちろんそんなことは読む人には何の関係もない。前著における「読みの運動」概念の提示が中途半端に終わってしまったことは潔く認めるとして、今回の本では(その博論の後半部分をベースにしているため)もう少しそのあたりを充実させたつもりで、多少なりとも議論が進展していると思っていただけたらありがたく思う。

この「読みの運動」と「協働表象」の内容については本書をご覧いただきたいが、本書ではこうした概念をもちいて大本教団や信仰者の運動、アカデミアの民衆宗教研究、変態心理学や特高警察などの宗教イメージ、『邪宗門』を中心とした文学作品における宗教イメージなどを連関させて議論している。仏教研究を中心として、近代宗教史の分野では近年積極的にメディア論的な視点をとりこんで領域を広げており、本書もさしあたりその流れに掉さしたものということになるかもしれない。ただその場合、単にいろんな人がいろんなかたちで宗教のイメージを生み出していったのだということを示すだけではなくて、それらが互いに緊密に結びつきながら、複雑な齟齬・葛藤や捻じれ、絡まりあいを生じさせていったところに焦点をあわせたつもりである。それが成功しているかどうか、独自の問題系を提示できているかどうかは、読者のご判断にゆだねるしかないのだが。つづく。




2020年10月16日金曜日

『宗教文化は誰のものか:大本弾圧事件と戦後日本』(発売中!)を(自分で)薦める(その1)

というタイトルの本を出すことになった。すでに手元に届いたが、奥付は10月30日となっているので、書店等での発売はもう少し先のよう。2冊目の単著で、前の本から5年ぶりである。

前著のときは、あまり宣伝らしい宣伝をしなかった。Facebookで少し告知したぐらいか。面倒くさいというより、なんとなく照れくさいとかそういうレベルのことだった。しかし本をつくるのに自分以外のいろんな人が努力してくれているのにそんなことを言っている場合でもないということで、今回は多少なりとも宣伝を試みたい。ということで告知用にTwtterでもはじめようかとも思ったのだが、なんかウィット&ユーモアに富んだ短文を書かなければならないのではないかという自己検閲にさいなまれるような予感や、クソリプとか飛ばされたら困るなあという不安で、はじめる前から疲れてしまったので遺憾ながらTwitterプランは廃棄である。Facebookは前から一応やっているが、これもしばらく前からなんだか気が重くなってほとんど書きこまなくなってしまっている。タイムラインでベルトコンベア的に流れていってしまう感じがどうにも慣れないのである。

いや、べつにSNSについてどうでもいい雑感をのべたくてこれを書いているわけではないのだ。とにかく(脳内会議の末)なんやかやで最終的にブログという伝統的ツールがベストだということになった。自分的には一定の長さのある文章を書かないとどうにも落ち着きが悪いということがひとつ。そして、公開したからといっていちいち自動的に他人様のタイムラインにしゃしゃり出ることがない控えめさがいい。ひっそりとしていたいのである。そもそもこのブログの存在自体、リアルの知り合いをふくめてほとんど誰も知らないのではないだろうか。ひっそりとしていて宣伝の意味があるのかどうかが今回は問題となるわけだが、そこはのちの課題としておこう。

さて『宗教文化は誰のものか:大本弾圧事件と戦後日本』である。版元の紹介ページはコチラ。そこから目次を拝借すると、こういう構成になっている。

序章 大本弾圧事件の戦後
     1 事件の残骸
     2 〈事件〉が切りひらく世界
     3 読みの運動と解釈共同体
     4 協働表象が生じる場
     5 結節点としての大本七十年史編纂会
     6 本書の構成
     7 戦前期大本の歩み

第1章 戦後大本と「いまを積み込んだ過去」
      —— 前進と捻じれの平和運動
     はじめに
     1 大本の平和運動をとらえるためのふたつのスケール
     2 七王も八王も王が世界に在れば……
     3 出口伊佐男の世界連邦主義
     4 人類愛善-世界連邦運動の展開
     5 人類愛善-原水禁運動のはじまり
     6 出口榮二の平和思想
     7 人類愛善運動とアジア主義
     8 平和運動の軋み
     9 破 裂
     おわりに

第2章 〈事件〉をめぐる対話
     はじめに
     1 「神さまの摂理」としての〈事件〉
     2 大本邪教説の再構成
     3 予備調査へ
     4 〈事件〉をめぐる対話
     おわりに

第3章 宗教文化は誰のものか
     はじめに
     1 大本七十年史編纂会の形成
     2 “民衆宗教” という表象
     3 教祖の人間化
     4 戦争と平和
     5 〈事件〉は誰のものか
     6 『大本七十年史』とその後
     おわりに

第4章 “民衆” の原像
      —— 出口榮二と安丸良夫
     はじめに
     1 アイヌへのまなざし
     2 “土” の文化と縄文
     3 「万教同根」とアジア主義
     4 読みの運動のなかの『出口なお』
     5 無意識としての神
     6 筆先の「改編」
     7 “民衆” の原像
     おわりに

第5章 “民衆宗教” の物語の起源
      —— 教祖をめぐる欲望の系譜学
     はじめに
     1 新宗教研究と複数の経路
     2 単層的な教祖像
     3 深層への遡行
     おわりに

第6章 反倫理的協働の可能性
      —— 高橋和巳『邪宗門』を読む
     はじめに
     1 高橋和巳の衝動とひのもと救霊会
     2 ひのもと救霊会の構造
     3 〈事件〉の変奏
     4 協働の反倫理性
     おわりに

終章 批判的宗教文化への視角
     1 “いま” を生きる大本
     2 苦闘の軌跡へ
     3 捻じれた連続性
     4 “本質” をめぐる解釈闘争
     5 戦後社会のなかの “民衆宗教”
     6 分析的介入の課題

 註
 戦後大本関連年表
 あとがき
 図表一覧
 索 引


内容紹介としては、こんなふうに書いていただいている。
信仰の “内か外か” を越えて ——。最大の宗教弾圧事件の記憶は戦後、いかに読み直され、何を生み出してきたのか。教団による平和運動を導くとともに、アカデミアにおける「民衆宗教」像の核ともなった「邪宗門」言説の現代史から、多様な主体が交差する新たな宗教文化の捉え方を提示。
かぎられたスペースに中身を盛り込んでいただいているので、これだけでは具体的な内容をイメージしきれないかもしれない。というわけで、これからもう少し言葉をおぎないながら本書の魅力をお伝えしてみようと思う。が、はやくも少々疲れてしまったので、つづきは次回に! 宣伝なのに連載である。