2020年10月20日火曜日

『宗教文化は誰のものか:大本弾圧事件と戦後日本』(発売中!)を(自分で)薦める(その2)

この本の内容を一番シンプルに表現するなら、副題の「大本弾圧事件と戦後日本」というのが適切だと思う。大本弾圧事件、いわゆる第一次・第二次大本事件は戦前の出来事なのだが、それを戦後日本という時空間のなかに置きなおして考えてみようというのがひとつのミソである。

大本は、近代日本の新宗教のなかでももっとも有名なもののひとつで、その歴史を分析した研究も多く存在しているのだが、そのほとんどは戦前で終わっている。出口なお・王仁三郎という二大カリスマ、そして二度の弾圧事件のインパクトが大きすぎて、戦後の歩みは後景化してしまっているのだ。しかし、なおや王仁三郎、弾圧事件などについての私たちのイメージは戦後に形づくられたものなのだから、それは戦後史の問題でもある。そのイメージの形成過程を追っていくと、信仰の有無を越えた多様な人びとが過去の記憶や戦後社会の矛盾と格闘し、新たな宗教文化を作り上げていったさまが浮かび上がってくる。

ここであらためて、版元ホームページの内容紹介文をあげておこう。

信仰の “内か外か” を越えて ——。最大の宗教弾圧事件の記憶は戦後、いかに読み直され、何を生み出してきたのか。教団による平和運動を導くとともに、アカデミアにおける「民衆宗教」像の核ともなった「邪宗門」言説の現代史から、多様な主体が交差する新たな宗教文化の捉え方を提示。

ここで「邪宗門」言説とあるのは、高橋和巳の小説『邪宗門』を念頭に置いたものである。全共闘世代の人には説明不要だと思うが、この作品で高橋は大本弾圧事件を元ネタにして架空の教団を造形し、国家の弾圧に翻弄された彼らが最終的に「邪宗」としてのレッテルをみずから引き受け、滅んでいく姿を描ききった。この作品に典型的にみられるように、大本は弾圧という出来事がもつドラマ性のゆえにこそ戦後社会の注目を集めた。その注目は教団の人びとを勇気づけもしたが、その一方で教団を困難な状況に導くことにもなるのである。本書は「邪宗門」言説を再生産しようとするものではなく、むしろ「邪宗」や「異端」を欲望するその言説自体の構築過程を問い、その歴史的存在性格を浮かび上がらせようとするものだ。

そのために、本書では信仰共同体の内と外、戦前と戦後をつなぎながら、広い意味での宗教文化の展開をとらえようと試みている。そのための方法的工夫が「読みの運動」と「協働表象」という自作の概念である。このうち「読みの運動」のほうは、前著『新宗教と総力戦』のなかでも実は出していた。出してはいたが、ほとんど注目されることもなく、まるで浸透していない。少々切ないが、無理のないところもあった。前著は天理教という一教団の歴史をひたすら追うものだったから、「読みの運動」といっても教団の構成員が先行する信仰者の遺産を読みなおして新たな信仰を生み出していくという、ごく当たり前のことを言っているにすぎなかったともいえる。わざわざ新たな概念を提起する必要性が伝わらなかったのではないかと思う。

言い訳がましくなることを承知で説明するなら、おそらくそれは前著が長い博士論文の前半部分を切り取って作りあげたものであったことに起因している。後半部は信仰共同体の枠を越えた宗教文化の広がりを扱おうとしたものであったから、「読みの運動」という概念ももう少し有効性を発揮したはずだったのである。とはいえもちろんそんなことは読む人には何の関係もない。前著における「読みの運動」概念の提示が中途半端に終わってしまったことは潔く認めるとして、今回の本では(その博論の後半部分をベースにしているため)もう少しそのあたりを充実させたつもりで、多少なりとも議論が進展していると思っていただけたらありがたく思う。

この「読みの運動」と「協働表象」の内容については本書をご覧いただきたいが、本書ではこうした概念をもちいて大本教団や信仰者の運動、アカデミアの民衆宗教研究、変態心理学や特高警察などの宗教イメージ、『邪宗門』を中心とした文学作品における宗教イメージなどを連関させて議論している。仏教研究を中心として、近代宗教史の分野では近年積極的にメディア論的な視点をとりこんで領域を広げており、本書もさしあたりその流れに掉さしたものということになるかもしれない。ただその場合、単にいろんな人がいろんなかたちで宗教のイメージを生み出していったのだということを示すだけではなくて、それらが互いに緊密に結びつきながら、複雑な齟齬・葛藤や捻じれ、絡まりあいを生じさせていったところに焦点をあわせたつもりである。それが成功しているかどうか、独自の問題系を提示できているかどうかは、読者のご判断にゆだねるしかないのだが。つづく。




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