2022年5月21日土曜日

ナヨン・エィミー・クォン『親密なる帝国:朝鮮と日本の協力、そして植民地近代性(コロニアル・モダニティ)』訳者あとがき補遺(その1)

 仲間たちとの共訳で、ナヨン・エィミー・クォン『親密なる帝国:朝鮮と日本の協力、そして植民地近代性(コロニアル・モダニティ)』(人文書院)を刊行した。Intimate Empire: Collaboration and Colonial Modernity in Korea and Japan, Duke University Press, 2015の全訳である。

出版社による内容紹介は以下のとおり。

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日本と朝鮮、戦時下における文化「協力」

〈内鮮一体〉の掛け声のもと一度は手を取り合いながら、戦後には否認された数々の経験と記憶。忘れ去られたその歴史を掘り起こし、「協力vs抵抗」では捉えきれない朝鮮人作家たちの微細な情動に目を凝らす。日本と朝鮮半島に共有された植民地近代という複雑な体験がもたらす難問に挑み、ポストコロニアル研究に新たな光を当てる画期作。

「本書で論じられるのは、「韓国(朝鮮)と日本の近代史において親しく分有され、しかし否認されてきた植民地的過去と、アジア・太平洋地域において争われているその遺産の広範な意味」である。植民地末期に活躍した金史良(キムサリャン)、張赫宙(チャンヒョクチュ)、姜敬愛(カンギョンエ)ら植民地朝鮮出身作家とその作品は、日本帝国の崩壊後、日本では忘却もしくは周縁化され、韓国と北朝鮮では対日協力と抵抗の二分法的論理に基づいて分類・評価されてきた。クォンは、これらの作品が――植民地期からポストコロニアル期にかけて――生産/翻訳/消費されるプロセスを徹底して追跡することによって、記憶の抹消や固定的な二分法を乗り越え、コロニアルな近代経験が孕む難問(コナンドラム)を明るみに出していく。」(訳者あとがきより)

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翻訳書刊行にいたる経緯や本書の魅力については、巻末の「訳者あとがき」にも少々記したが、他人の著作なのにあまりいい加減なことは書けないという気持ちもあり、控えめな感じになってしまった。そこで、極私的な感想や自分なりの応用可能性について、このブログで少し書き留めておこうかと思う。

本書でとりあげられるのは、植民地朝鮮の作家たちとその作品、そして彼らをとりまく複雑でトランスコロニアルな力学、そしてポストコロニアルの現在における記憶の政治学である。ジャンルとしては文学が中心になるが、静態的な作品分析に終始するわけではない。メディアミックス的な展開もふくめ、文学行為の政治的・社会的意味が多角的に分析されている。
かつて、「内地」の人間が朝鮮出身作家の作品をアタリマエのように日本語で読むことができたのはなぜなのか、その前提条件である翻訳という行為がまず問題になる。とりあえず、朝鮮語で書かれた作品を日本語に訳すというもっとも一般的な意味での翻訳。朝鮮人の作家が自分の朝鮮語作品を翻訳することもあれば、最初から日本語で書く場合もあった。朝鮮出身作家の作品が、翻訳の有無を明示せずに掲載されることもしばしばあり、「内地」の者たちは、あたかもそれらがもともと日本語で書かれたものであるかのように、苦もなく読むことができた。本書で引用されている、とある日本人文芸評論家のように。
大した作品でもないものをここにとくに委しくのべたのは、それによつて現在の朝鮮文学がどんなものであるかを暗示したいからである。(中略)或る深い、或ひは新らしい観点、極めて個性的である筈のものなどは見出されない。(板垣直子『事変下の文学』(『近代文芸評論叢書』22巻、『親密なる帝国』104頁)
朝鮮の作家の作品を当然のように日本語で読んで、なにやらエラそうに品評している。自分が朝鮮語を理解できないことを棚に上げ、朝鮮出身作家が日本語で、近代的な「小説」形式にあわせて書くために注ぎ込まれた膨大な労力を一顧だにせず、文学的価値の判定者としての自分の資格を疑う気配もない。さらにこの人はご丁寧に満洲と朝鮮の文学を比べて、朝鮮文学のほうがちょっとだけ進歩しているなどとのたまっている。

読んでいるこちらが恥ずかしくなるような文章だが、「翻訳」された膨大な情報を浴びるように消費している僕たちにとっても、それはけっして他人事ではない。スマートフォンやコーヒーと同じように、言語的生産物もまた、翻訳という労働の苛烈な搾取のうえに成り立っていることを、本書ははっきりと思い知らせてくれる(AI翻訳技術の発達が状況に変化をもたらすのかもしれないが、その変化がどの程度根本的なものなのかはよくわからない)。

本書の分析は、朝鮮出身作家が日本語で書く場合に生じる内面的な翻訳、そしてそれが作者にもたらす主体性の分裂にも及んでいる。とくに3~5章で詳論される金史良は、朝鮮語と日本語両方で作品を書いたが、著者クォンが金に見出すのは、両言語を自在に操って宗主国文壇で活躍する特権的な主体ではなく、宗主国側からも朝鮮人側からも圧力を受け、それらと自分自身の文学的欲望とのはざまで引き裂かれる困難な主体なのだ。そんな彼をクォンはマイナー・ライターと呼び、テクストレベルとメタテクストレベルの両面からとらえることで、彼が追い込まれた難問(conundrum)、そして同時に帝国日本が経験した植民地近代を浮き彫りにしていく。

金の短編「光の中に」は、1940年の芥川賞を寒川光太郎の「密猟者」と争い、最終的に第二席となっている。クォンは選考委員たちのコメントから、金のようなマイナー・ライターに対する宗主国文壇のアンビヴァレントな欲望を析出する。要するに彼らはこの朝鮮人作家を同化のシンボルとして祭り上げつつ、同時に彼を巧妙に排除することを望んだのである。そしてこの作品は日本の「私小説」という枠組みに組み入れられ、しかし同時に集合的な朝鮮問題の表象としても消費される(「植民化された私小説」)。金はこうした評価に戸惑い、主体の分裂を抱えながら創作を続けたのだった。

こうした同化と差異化の不安定な戯れは、植民者と被植民者の双方を不安にさせていた。クォンは、芥川賞選考委員が西洋の文学的規範の権威に依存し、選考の正当性を演出しようとする身ぶりを分析したうえで、「寒川の方がよりすぐれた候補者であるという点で一致しているようにみえるのに、彼らはそろって弁解がましく、その結論を少なからず出ししぶっている」という点に注目する(100頁)。それは、近しい隣人を包摂しつつ排除しようとする、この極東の帝国を悩ませた矛盾した欲望の不可能性を示す徴候なのである。こういう、テクストにあらわれる微細な揺らぎを丁寧に、誤解を恐れずにいえばいやらしくすくい取っていく手法のなかに、『親密なる帝国』の卓越した特長があるのだと思う。

クォンが本書で展開する(翻訳者泣かせの)仕掛けはほかにもいろいろとあり、暇をみてもう少し書き連ねていきたい。
(つづく)

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