2016年10月20日木曜日

「総力戦と「革新」する天理教」後記

転載する前に
 
 拙著『新宗教と総力戦―教祖以後を生きる』の第4章「宗教経験としてのアジア・太平洋戦争―〈ひのきしん〉の歴史」は、この形になるまでにややややこしい経緯をたどっている。
 まず、その中核部分は修士論文として書いたものなのだが、これを読んだ幡鎌一弘さんから重要な批判を受けた。その後、修論を微修正して「総力戦と「革新」する天理教」と改題し、『近代日本における表象と語り』(平成18‐20年度文部科学省科学研究費補助金基盤研究(B)[家族写真の歴史民俗学的研究]中間報告書・課題番号18320141、研究代表者:川村邦光、2008年)に掲載したのだが(pp.159-227.)、その際に幡鎌さんへの応答として「後記」を付した。さらに『新宗教と総力戦』を出版するにあたって、幡鎌-永岡の間のやりとりをふまえてバージョンアップしたものを第4章に収めた次第である。
 ただ考えてみると、この科研報告書が人の目にふれることはほとんどないように思われるので、この間の経緯を開示する意味で、以下に「後記」を転載する。回りくどい説明で恐縮です。これだけではいまいちよくわからないかもしれないので、ぜひ幡鎌さんによる「はたらき――ひのきしん」(天理大学おやさと研究所編『天理教のコスモロジーと現代』天理大学出版部、2007年)もあわせてご参照いただければ幸いである。



後記

 「前記」でのべたとおり、本稿の基となる修士論文「天理教の「革新」と「復元」――戦争と〈ひのきしん〉から」(大阪大学大学院文学研究科、2006年)は、幡鎌一弘(「はたらき――ひのきしん」天理大学おやさと研究所編『天理教のコスモロジーと現代』天理大学出版部、2007年)によっていくつかの批判を受けた。ここでは、幡鎌の批判にたいして私なりの応答を試み、現時点での私の立場を明らかにしておきたい。
 幡鎌は、修士論文(「前記」で断ったように、それは本稿の序章から第三章にほぼ相当するので、以下では「本稿」と表記する)の後半部分(主に第二章のことと思われるが、第三章にもややかかわっている)における私の主張を、つぎの6点にまとめる(「はたらき」論文、87~88頁)。この整理については、私にもさしあたり異存はない。

①「ひのきしん」の表象の変化について、(1)一派独立以前、(2)一派独立~1920年代、(3)1930年代~敗戦、(4)敗戦直後、という時期区分を行ったこと。「教語の位置づけや意味する内容は歴史的に規定され変化していくもので、その形成過程を明らかにすることが重要である」ということ。
②(2)の時期に、教団が戊辰詔書を受け止めるなかで、「ひのきしん」が宣伝され始め、工場労働と結びつくなどし、「ひのきしん」の意味が根本的に変化したこと。
③(3)の時期の「いざ・ひのきしん隊」による戦争協力にたいする天理教の姿勢の問題点の指摘。
④(3)の時期の「ひのきしん」を通して、病気治しを中心とし、個人的救済を主眼とした天理教が、社会=国家に奉仕する宗教として変容した。
⑤「宗教のもっとも核心的な部分」の形成に国家や戦争がふかくかかわっている 。<註1>
⑥「ひのきしん」の「不変の核心」(諸井慶徳)などは(神学的な解釈を除き)歴史的には存在せず、それを前提として語られる「ひのきしん」の歴史は、「いざ・ひのきしん隊」の活動(つまりは戦争協力)を本質から逸脱したものと位置づける装置となっている。

 幡鎌は、このうち①②③⑤の主張には基本的に共感できるが、より具体的な論点についていえば、受けいれられない部分がある、とする。
 まず、幡鎌によれば、永岡は太平洋戦争中に「ひのきしん」と犠牲的精神(天皇・国家への奉仕)と天理教の精神とが等置されるようになり、戦後しばらくはそのような体制が続くが、「天理教教典」成立によって、「ひのきしん」の解釈が犠牲的精神から「たすけ一条の喜び」へと転換したとしている。つまり、永岡の説明では、教義としての「ひのきしん」は「天理教教典」の成立の前後で転換したかのようである。だが、「そのような教義転換の根拠がいつどこから生み出されてきたのか」を明らかにする必要があるはずだ(「はたらき」論文、88頁)。
 この「教義転換の根拠」を、幡鎌は明治末年から「革新」が断行されるまでに発表された言説のなかにみいだしているようだ。本稿でも言及した『みちのとも』の記事や、天理教の教理・実勢を紹介した『天理教綱要』(1930年版、1932年版)の〈ひのきしん〉にかんする記述を検討して、この時期の〈ひのきしん〉論には、私のいうような「犠牲的精神」を強調する論調だけでなく、親神への報恩・感謝も含みこまれている、と指摘する<註2> (「はたらき」論文、107頁)。幡鎌は、この後者の要素が、戦後の「天理教教典」につながる「教義転換の根拠」となったものと考えているのだろう。報恩・感謝の要素が「復元教典」につながっている、という幡鎌の見方が的確なものであることを、私もここで確認しておきたい。
 とはいえ、幡鎌の整理のなかでは、私の論旨がやや単純化されているように思われる。たしかに私は、「復元教典」成立のプロセスにおいて、「「犠牲」的宗教としての「天理教」から「たすけ一条の喜び」へ、戦前において支配的であった解釈からの転換がはかられていた」(本稿、210頁)とした。しかし他方で、「正善の戦前から継続する原典の研究・理解が「おふでさき」解釈を大筋で形成していったことはいうまでもない」(本稿、212頁)とものべている。つまり私は、「復元教典」の前後における思想的連続性を無視しているわけではなく、新しい教典によって、「たすけ一条の喜び」が天理教の言説空間のなかで支配的(ヘゲモニック)になっていった点を指摘したのである。おそらくこの点については、幡鎌と私の間にそれほど大きな隔たりはないのではないかと思うのだが、幡鎌のばあいは、正善だけでなく『天理教綱要』などにも「復元教典」につながる考えかたがみられる点を新たに指摘したということになるだろう。
 「復元教典」につながった思想的系譜を丁寧にたどることは、いうまでもなく重要な作業である。だが、ある思想が“存在していた”ことと、“広く浸透していた”こととは、まったくべつの問題だろう。すでに本文で検討していることがらであり、ここで繰りかえす必要はないが、戦前の天理教メディアで語られていた〈ひのきしん〉にかんする言説は、親神への報恩・感謝という要素を含みこみながら、明らかに「犠牲的精神」に強調点が置かれていた、と私はみている。たとえば第三章に引用した「わしらは泣いて果たすというような時代の教育を受けてるから、そう言われても〔喜んで果たす、つまり陽気ぐらしが大目標なのだという正善の説明が〕分かりにくかった」という中山慶一の発言は、そうした言説空間の状況を考慮しなければ、理解できないのではないだろうか。教典編纂の担当者においてさえ、「復元教典」は根本的な転換と受けとめられたのであり、この戸惑いの意味するところを、適切に汲みとる必要があるだろう。
 つぎに、幡鎌は、永岡は「「ひのきしん」の歴史叙述について、時代に制約された政治性にスライドさせてしまい、歴史観の根拠が十分深められなかった」(「はたらき」論文、89頁)とし、戦後の「おふでさき」解釈の変更にかんする私の議論(本稿第三章)をつぎのように批判する。「永岡は「から」「にほん」の教説の戦後における変更が、GHQによる政治体制下の産物であることを指摘」しているが、「とすれば、現在の解釈は占領政策の痕跡であって戦争の痕跡ではないということになる。しかし、私は、現在の解釈は、戦争体験に戦後が重なり合って構築されたものと考えている」(「はたらき」論文、125頁)。ここで幡鎌が言及している「戦争体験」としては、たとえば1946年版「おふでさき」釈義執筆を中心的に担ったとみられる上田嘉成が、中国の戦地から1939年に『みちのとも』に発表した文章があげられている。幡鎌によるなら、戦前の「おふでさき」釈義では、「根の国・日本と枝先の外国との秩序は、日本と外国の実態と重なり合って説明されていた」が、「上田は、自らの進む道に日章旗が立っていく、すなわち「から」が「にほん」になっていく戦争体験によって」、神意にかなったものはみな「にほん」となるのだ、とする理解に到達したのだという。ここから、1946年版の釈義では、「この戦争体験や国家観が脱落し、抽象的な理解のみが提示された」というわけである(「「復元」と「革新」」天理大学おやさと研究所編『戦争と宗教』,2006年、159‐161頁)。してみると、「から」「にほん」にかんする戦後の解釈は、日中戦争期にすでに準備されていたということになるだろう。
 重要な指摘だと思われるが、まったく疑問がないわけではない。引用されている上田の「日章旗の輝く所、之皆、神意の具現しつゝあるの地であります。どうして他国と思へませう」ということばは、抽象的・普遍主義的な立場のうえに、戦争体験や国家観がたんに付け加わっているだけのものなのだろうか。逆にいえば、このことばから戦争体験や国家観を「脱落」させれば、戦後の解釈になるといえるのだろうか。形式的にみれば、そのようにいえるかもしれないが、このときの上田にとって、普遍主義的立場と国家主義的立場とは、複雑に絡まりあっていて、単純に“足し算”や“引き算”によって転換できるものではないように思われる。むろん、「戦前の天理教のコスモロジーでは、普遍主義的な立場に立ちながら、日本という国家を内包し、そこから強烈な弾圧を受けつつも、ぢばを中心とした「根の国」の信憑構造を支えるものとして、国家(日本)が必要とされていた」(「「復元」と「革新」」、161頁)という箇所からもうかがわれるように、幡鎌も普遍主義と国家主義の複雑な絡まりには自覚的である。幡鎌の主張が重要なものであるからこそ、日中戦争期の上田の立場が、戦後の社会的・思想的状況のなかで、どのように「復元教典」へと転換していくのか、「脱落」の意味を問いなおし、その具体的なプロセスを明らかにしていく必要があるのではないだろうか。
 幡鎌の主張には若干の留保をつけたものの、「おふでさき」釈義の変更にかんして、私がGHQの占領政策が関連していたこと以外に有効な説明をなしえなかったことはたしかであり、幡鎌の批判はまったく正鵠を射ている。上記の疑問は、幡鎌に向けた問いである以上に、私自身の課題としてあるものだ。
 以上の批判点は、主として私の「復元」についての理解、ないし戦前・戦中・戦後の連続性と断絶にかかわるものであった。このほか、幡鎌は、永岡は「〈ひのきしん〉の「不変の核心」などは(神学的解釈を除き)歴史的には存在しない」(本稿204頁)としているが、「神学(教学)を除いて「不変の核心」を検討したことになっているのは、やや徹底を欠いていて、論文の意図するところが伝わってこない。永岡は、教義形成の問題を信者一般にまで拡散してしまい、問題を絞りきれなかったように思われる」(「はたらき」論文、89頁)と、本稿の第二章での議論を批判している。批判の意図を正しく理解できているか心もとないが、おそらく「不変の核心」ということばの捉え方において、幡鎌と私の間に隔たりがあるのではないだろうか。幡鎌が「不変の核心」ということばにどのような意味を読みこんでいるのか、はっきりとはわからないが、「不変の核心」など存在しない、という表現は私が意図した以上に強いニュアンスをもってしまったのかもしれない。問題となっているこのことばは、諸井慶徳が『ひのきしん叙説』(1946)において使用したものである。本稿第二章でのべたように、諸井は、〈ひのきしん〉が歴史的にさまざまな形で行われてきたことをいいつつも、「ひのきしんの本質」はけっして変化しておらず、「不変の核心が確乎として貫かれている」としていたのだった。むろん、事後的な観点から、史料に残された事例のなかになんらかの「不変の核心」を見いだそうとすることは可能だろう。だが、ある歴史的状況のなかで〈ひのきしん〉が言説化・教義化され、教義化されたものが実践され、さらに実践が教義へと影響を与えなおしていく過程で、〈ひのきしん〉と呼ばれるものが、いわば不可逆的な変容を蒙ってきているのではないだろうか。
 具体的には本稿でのべたとおりであるが、ここにはたとえば、天皇制をめぐる議論とも似た構造がみられるといえるかもしれない。安丸良夫は、天皇制を論じる言説のなかには、「天皇制をきわめて古い時代からの持続性においてとらえる」「連続説」と「天皇制が歴史のなかで大きく変容し断絶していることを強調している」「断絶説」があるとする。安丸は「もちろん、天皇制にかかわる制度や観念には古い由来をもつものも少なくないが、しかしそれらは近代天皇制を構成する素材として利用されて新しい意味を与えられたのだと考える」とし、自らは断絶説に立つとのべている(『近代天皇像の形成』岩波書店、1992→2001年、11‐12頁)。
 安丸の言い回しにならっていうなら、諸井は〈ひのきしん〉の連続説、私は断絶説をとっているということになるだろう。明治末年以降における、古い「素材」の利用の仕方、「新しい意味」の与え方のなかに、〈ひのきしん〉の大きな変容や断絶がみられる、と私はいっているのである。検討が「徹底を欠いて」いるという指摘は真摯に受け止め、今後の調査の糧としたいが、〈ひのきしん〉の歴史的変容にかんする大きな見通しそのものについて、修正する必要は感じていない。また、改めて強調しておきたいが、私は〈ひのきしんの歴史〉に断絶をもちこんで、諸井らが語る〈ひのきしん〉の伝統を失効させようなどと考えているわけではない。教学的な〈ひのきしんの歴史〉は、信仰上の規範として、とりわけ信者にとって重要なものでありつづけるだろうが、そうした歴史の語りとともに、その歴史の形成過程をも認識し、ふたつの歴史を往還することによって、個々の信仰者における〈ひのきしん〉の意味がより深みを帯びていくのではないだろうか。
 幡鎌と私の立場の違いがもっとも如実に表れているのは、私が「教義形成の問題を信者一般にまで拡散してしま」った、という箇所かもしれない。たしかに、教団幹部による教義形成に問題を絞りこんで議論を行っている幡鎌の諸論稿に比べ、本稿では教義の展開と一般信徒とのかかわりについても検討を試みている。
 実証の精度において、多くの不備があることは認めなければならないが、幡鎌のいう「拡散」は、私にとって必要なものであった。というのも、序章でのべているとおり、私は教義概念の形成を担うのは、教団幹部だけではないと考えているからである。多くの信者を抱え、歴史具体的な状況のなかで活動した宗教集団の姿をとらえるうえでは、「原典や教典などといったテクストにおいて教えられる内容はもとより、それらをもとにした説教、それらを解釈するスタイル、それらをもとにして行われる言語的・非言語的行為などによって構成される総体」として教義概念をとらえる必要があると考える。この観点からするなら、「問題を本部エリートの動向、思想だけに限定してしまうと、教義概念を構成する関係の網のうち一端をしか扱わないことになる。本部周辺からの呼びかけが、一般信者にどのように聞きとられ、それらが彼らの実践とどのように関わるのかを考える」ことが、私の課題であった(本稿169頁)。むろん、このように包括的に教義形成の問題を考えることは、きわめて困難な作業であり、本稿はその粗雑な素描にすぎないというべきだろう。
 以上、幡鎌による批判のうち、応答の必要があると判断したものについて、私の考えをのべてきた<註3>。少なからぬ批判を受けたにもかかわらず、幡鎌と私の議論は、基本的な問題関心において共通するところが大きいと思っている。それは、現在正統的な位置を占めている教義が形成されてきたプロセスを具体的に認識し、そこから改めて未来へ向けられた教義のありよう、そして信仰のありようを捉え返していこうとする姿勢である。両者には、天理教の信仰をもつ人間(幡鎌)/信仰をもたない人間(私)というスタンスの違いがあるが、教義の歴史的読解という課題にかんしていえば、協同することが可能であり、幡鎌の仕事に触発されながら、手をつけたばかりのこの大きな課題に取りくんでいきたいと思う。



<註1>ただし、細かなことだが、私は「宗教のもっと核心的な部分」(本稿、204頁)と書いている。国家や戦争という要素が、他の何にも増して「核心的」であるという主張はしていない。
<註2>私も、親神への報恩・感謝という要素を無視していたわけではないが、どちらかといえば否定的に扱い(たとえば本稿194頁)、「犠牲的精神」をとくに強調していたことはたしかである。
<註3>第二章における「いざ・ひのきしん」隊の活動にたいする評価についても、幡鎌は異見を提出している(「はたらき」論文、114-121頁)が、この点についてはすでに拙稿「天理教の戦争と「真情」のポリティクス――アジア・太平洋戦争期における「ひのきしん隊」の実践と信仰」(『日本思想史研究会会報』25号、2007年)において詳細にのべているので、ここでは繰りかえさない。




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