2020年7月19日日曜日

第1回 『〈宗教〉再考』精読会(その1)

勉強会発足の経緯と初志についての話が途中なのだが、とりあえず忘れないうちに6月8日に行った1回目の記録を残しておこう。正直すでに忘れかけているが。

2020年6月8日(月)19:30~22:00ぐらい Zoomでの開催

第0回の話し合いで、当面は島薗進・鶴岡賀雄編『「宗教」再考』(ぺりかん社、2004年)から論文をいくつか選んで読むことになった。2000年代に宗教学界隈でわりとトレンドとなった宗教概念論と呼ばれる諸研究の成果のひとつ。参加者のなかではこういう議論に馴染んでいる人もいれば、そうでもない人もいるのだが、「方法論」を意識した会でもあるし、トレンドが一段落してあらためて検討される機会が減った時点だからこそ、集団的に読みなおす意味もあるだろう。現在ではなかば普通のことだが、出版時点ではホットな問題で、とりあえずふまえておくべき認識といえる(Hさん。以下参加者はイニシャルで表記)。
全員が読んできているという前提で、ひとりにレジュメを用意してもらい、概要を報告していただいて、ディスカッションという流れ。Zoomではあまり長くなるとしんどいという声もあり、ひとつの論文につき1時間というしばりを作った。

(1)深澤英隆「「宗教」概念と「宗教言説」の現在」(担当:Oさん)
「ポスト世俗化」時代における宗教研究=「宗教」概念をめぐる議論が中心的テーマになっている。欧米における議論の展開をたどりながら、宗教研究における「宗教」概念の揺らぎとそれへの応答の可能性を探る。

そもそも「宗教」概念を問いなおして何の意味があるのか? という疑問が出された。なんであれ、ある学説が市民権を得てみんなが「宗教概念論身につけてます」的な顔をして歩くようになると(でもみんなどの程度「身につけて」いるのかは怪しい)、「今さら聞けない」雰囲気になってしまうこともあるので、この勉強会でこういうそもそもの問いを出していただくことはとても大事だと思う。とりあえず①日本の文脈で宗教を考えるとき、「宗教」なる概念がどうにもすわりが悪い場合があり、その概念の来歴をたずねることでその坐りの悪さを言語化していく必要があったということ、②オウム事件をきっかけに、宗教学者が「宗教」の独自性を追及するだけではダメで、自分の学的営為がもつ政治性や社会性を自覚する必要が唱えられたこと、③「宗教」の洗いなおしを通じて、これまで対象化されてこなかったものが視野に入るようになり、宗教研究のすそ野が広がってきたことなどが話題に上った。

最後に深澤さんがあげている、今後の宗教言説への諸立場というもの(自然的態度の宗教研究/経験性―規範性の二分法を乗り越える立場/客観主義的・構築主義的立場/ポスト構造主義の立場)の分類がわかりにくい、とくに客観主義的・構築主義的立場とポスト構造主義の立場の違いがよくわからないという意見もあった。これは必ずしも体系的な整理とはいえないのではないか、それに知識人・エリートにしか適用できないものなのではないかという指摘がなされたこともふくめ、あくまで暫定的な図式と考えるほうがいいのかもしれない。
個人的には、ポスト構造主義の立場は日本のアカデミックな宗教研究の業界ではまだあまり本格的に展開されていないのではないかという印象をもっている。でも次に読む鶴岡賀雄さんのエリアーデ論などはまさにこの立場ということになるのではないだろうか。

(2)藤原聖子「反転図形としての「聖」概念」(担当:Iさん)
「近代宗教研究の主要なテーマであった「聖と俗」あるいは「聖」概念そのものをオットー、デュルケム両氏「聖」概念を比較分析することで聖理論が西欧的で普遍的には適用できないという批判を検討するとともに、聖理論を主要な要素とする近代の宗教研究のアプローチ全体を問う。そのためにテキスト分析を通して、聖概念の歴史的コンテキストとテキスト(オットー、デュルケム)を検討して原初的な問題の所在を提起する」もの(Iさんレジュメより)

Iさんからは、オットーとデュルケームの聖概念を同系統のものとして同定し論じることが適切なのかという問いが出された。Kさんはそれをより推し進めて、両者の位置する政治的・社会的文脈、とくにドイツとフランスの間の状況の差異を無視して同列に議論することには大きな問題があるのではないかと批判を提出した。

また、オットーとデュルケームという宗教研究の古典を新たな視角から読みなおし、「原初的な問題の所在」を提起することは重要だと思うが、その議論を現在の宗教研究にどのように接続させるのかがかならずしも明らかでなく、食い足りない印象が残った。


……他にもいくつか論点があったはずなのだが、すでに再現できない。というか、第三者の論文を集団で読んで出た議論をまとめるというのは存外むずかしい、いまさらながら。これだけ読んでもどういった話だったのかはさっぱりわからないと思われる。すみません。
回数を重ねていけばもう少しまともな記録になるかもしれないが、とりあえずはないよりマシということでご容赦いただきたい。

そして個人的にはやはりZoomでの不自由さを感じてしまう。自分の嗜好としてこういう精読会はじっくり(ダラダラ)やりたいのだが、なんか時間が気になってしまうのである。上記の論点なども本当はもう少し時間をかけて深めたいところだったのだけれども、なんかそれぞれ言いっぱなしになってしまった感がいなめない。このへんの感じは、実際に空間を共有していたら違っているだろうし、オンラインでも旧知の間柄ならまた別だと思うのだが、リアルでは会ったことがない人もいるので……。この状況が当分つづくのなら、この条件でうまくやる工夫が必要になりますね。という運営上の反省とともに。

(2020年7月19日しるす)

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