2020年8月31日月曜日

 第2回 『〈宗教〉再考』精読会(その2)

2020年7月19日(月)19:30~22:00ぐらい Zoomでの開催

終わった後にすぐ書けばよいのにおっくうで書かないまま、ひと月以上経ってしまった。次回が近づいてきたのであわてて書くという、前回とまったく同じパターンである。そして内容を忘れ去っている。どうしようもないなと思いながら、論文を見返してわかる範囲で書き留めておきたい。

第1回につづいて、島薗進・鶴岡賀雄編『「宗教」再考』から論文2本を選んで読んだ。今回は論集の編者2人のものである。

(1)鶴岡賀雄「エリアーデ・レリギオースス」(担当:Kさん)

20世紀最大の宗教学者といわれながら、あるいはそれゆえに、「宗教」概念批判の論客たちから本質主義者として槍玉に挙げられることの多いミルチア・エリアーデ。エリアーデの宗教史をある種の「神学」として読むことで、宗教研究という営為を問いなおそうとする論文といえる。前回のところでも書いたが、深澤論文でいうところのポスト構造主義的な宗教言説の例といえるように思う。「宗教」をめぐる言説が政治性や価値の問題から逃れることができないという事実の確認にとどまらず、近代的な学知そのものに疑問符を突きつけようとするエリアーデの問題提起にどう応答するのかが問われている。

この会の参加者の場合、社会学や歴史学の方面から宗教を研究するという人の割合が高いので、こうした議論は少し異質に感じられたかもしれない。ただ、鶴岡が言うように、エリアーデの「神学」を批判するのであれば、社会科学的アプローチが拠って立つ諸前提もまた問われなければフェアではないだろう。エリアーデの主張を受け入れるかどうかというよりも、自分たちが受容し、生産しつつある宗教言説の存在性格を再考するためのきっかけとして、この論文を読むことができる。

(2)島薗進「近代日本における「宗教」概念の受容」(担当:Uさん)

内容はタイトルどおりで、著者の『国家神道と日本人』(岩波新書、2010年)につながる一連の論考のひとつ。近世から近代にかけての「宗教」をめぐる知識やポリティクスの転換が論じられている。ただ、参加者から意見が提出されたように、話が明治初年だけで終わっていて、「宗教」に関するさまざまな議論が噴出して複雑化するその後の展開が排除されているので、少々物足りなくはある。宗教概念論のひとつの論点は、西洋的なreligionに対応するものが日本の文脈でどのように受け入れられ、あるいは創出されていったのかということだが、それだけでは不充分である。そこから、さまざまなプレイヤー(宗教家や学者、政治家、役人、文学者などなど)の介入によってどのような屈折が生じたのかを問わなければならないだろう。島薗自身もふくめ、そうした問題群については現在進行形で検討が進められている。そうした試みとして、次回の星野靖二論文や福嶋信吉論文が重要になってくるだろう。


(2020年8月31日しるす)


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