2020年7月19日日曜日

第1回 『〈宗教〉再考』精読会(その1)

勉強会発足の経緯と初志についての話が途中なのだが、とりあえず忘れないうちに6月8日に行った1回目の記録を残しておこう。正直すでに忘れかけているが。

2020年6月8日(月)19:30~22:00ぐらい Zoomでの開催

第0回の話し合いで、当面は島薗進・鶴岡賀雄編『「宗教」再考』(ぺりかん社、2004年)から論文をいくつか選んで読むことになった。2000年代に宗教学界隈でわりとトレンドとなった宗教概念論と呼ばれる諸研究の成果のひとつ。参加者のなかではこういう議論に馴染んでいる人もいれば、そうでもない人もいるのだが、「方法論」を意識した会でもあるし、トレンドが一段落してあらためて検討される機会が減った時点だからこそ、集団的に読みなおす意味もあるだろう。現在ではなかば普通のことだが、出版時点ではホットな問題で、とりあえずふまえておくべき認識といえる(Hさん。以下参加者はイニシャルで表記)。
全員が読んできているという前提で、ひとりにレジュメを用意してもらい、概要を報告していただいて、ディスカッションという流れ。Zoomではあまり長くなるとしんどいという声もあり、ひとつの論文につき1時間というしばりを作った。

(1)深澤英隆「「宗教」概念と「宗教言説」の現在」(担当:Oさん)
「ポスト世俗化」時代における宗教研究=「宗教」概念をめぐる議論が中心的テーマになっている。欧米における議論の展開をたどりながら、宗教研究における「宗教」概念の揺らぎとそれへの応答の可能性を探る。

そもそも「宗教」概念を問いなおして何の意味があるのか? という疑問が出された。なんであれ、ある学説が市民権を得てみんなが「宗教概念論身につけてます」的な顔をして歩くようになると(でもみんなどの程度「身につけて」いるのかは怪しい)、「今さら聞けない」雰囲気になってしまうこともあるので、この勉強会でこういうそもそもの問いを出していただくことはとても大事だと思う。とりあえず①日本の文脈で宗教を考えるとき、「宗教」なる概念がどうにもすわりが悪い場合があり、その概念の来歴をたずねることでその坐りの悪さを言語化していく必要があったということ、②オウム事件をきっかけに、宗教学者が「宗教」の独自性を追及するだけではダメで、自分の学的営為がもつ政治性や社会性を自覚する必要が唱えられたこと、③「宗教」の洗いなおしを通じて、これまで対象化されてこなかったものが視野に入るようになり、宗教研究のすそ野が広がってきたことなどが話題に上った。

最後に深澤さんがあげている、今後の宗教言説への諸立場というもの(自然的態度の宗教研究/経験性―規範性の二分法を乗り越える立場/客観主義的・構築主義的立場/ポスト構造主義の立場)の分類がわかりにくい、とくに客観主義的・構築主義的立場とポスト構造主義の立場の違いがよくわからないという意見もあった。これは必ずしも体系的な整理とはいえないのではないか、それに知識人・エリートにしか適用できないものなのではないかという指摘がなされたこともふくめ、あくまで暫定的な図式と考えるほうがいいのかもしれない。
個人的には、ポスト構造主義の立場は日本のアカデミックな宗教研究の業界ではまだあまり本格的に展開されていないのではないかという印象をもっている。でも次に読む鶴岡賀雄さんのエリアーデ論などはまさにこの立場ということになるのではないだろうか。

(2)藤原聖子「反転図形としての「聖」概念」(担当:Iさん)
「近代宗教研究の主要なテーマであった「聖と俗」あるいは「聖」概念そのものをオットー、デュルケム両氏「聖」概念を比較分析することで聖理論が西欧的で普遍的には適用できないという批判を検討するとともに、聖理論を主要な要素とする近代の宗教研究のアプローチ全体を問う。そのためにテキスト分析を通して、聖概念の歴史的コンテキストとテキスト(オットー、デュルケム)を検討して原初的な問題の所在を提起する」もの(Iさんレジュメより)

Iさんからは、オットーとデュルケームの聖概念を同系統のものとして同定し論じることが適切なのかという問いが出された。Kさんはそれをより推し進めて、両者の位置する政治的・社会的文脈、とくにドイツとフランスの間の状況の差異を無視して同列に議論することには大きな問題があるのではないかと批判を提出した。

また、オットーとデュルケームという宗教研究の古典を新たな視角から読みなおし、「原初的な問題の所在」を提起することは重要だと思うが、その議論を現在の宗教研究にどのように接続させるのかがかならずしも明らかでなく、食い足りない印象が残った。


……他にもいくつか論点があったはずなのだが、すでに再現できない。というか、第三者の論文を集団で読んで出た議論をまとめるというのは存外むずかしい、いまさらながら。これだけ読んでもどういった話だったのかはさっぱりわからないと思われる。すみません。
回数を重ねていけばもう少しまともな記録になるかもしれないが、とりあえずはないよりマシということでご容赦いただきたい。

そして個人的にはやはりZoomでの不自由さを感じてしまう。自分の嗜好としてこういう精読会はじっくり(ダラダラ)やりたいのだが、なんか時間が気になってしまうのである。上記の論点なども本当はもう少し時間をかけて深めたいところだったのだけれども、なんかそれぞれ言いっぱなしになってしまった感がいなめない。このへんの感じは、実際に空間を共有していたら違っているだろうし、オンラインでも旧知の間柄ならまた別だと思うのだが、リアルでは会ったことがない人もいるので……。この状況が当分つづくのなら、この条件でうまくやる工夫が必要になりますね。という運営上の反省とともに。

(2020年7月19日しるす)

2016年10月20日木曜日

「総力戦と「革新」する天理教」後記

転載する前に
 
 拙著『新宗教と総力戦―教祖以後を生きる』の第4章「宗教経験としてのアジア・太平洋戦争―〈ひのきしん〉の歴史」は、この形になるまでにややややこしい経緯をたどっている。
 まず、その中核部分は修士論文として書いたものなのだが、これを読んだ幡鎌一弘さんから重要な批判を受けた。その後、修論を微修正して「総力戦と「革新」する天理教」と改題し、『近代日本における表象と語り』(平成18‐20年度文部科学省科学研究費補助金基盤研究(B)[家族写真の歴史民俗学的研究]中間報告書・課題番号18320141、研究代表者:川村邦光、2008年)に掲載したのだが(pp.159-227.)、その際に幡鎌さんへの応答として「後記」を付した。さらに『新宗教と総力戦』を出版するにあたって、幡鎌-永岡の間のやりとりをふまえてバージョンアップしたものを第4章に収めた次第である。
 ただ考えてみると、この科研報告書が人の目にふれることはほとんどないように思われるので、この間の経緯を開示する意味で、以下に「後記」を転載する。回りくどい説明で恐縮です。これだけではいまいちよくわからないかもしれないので、ぜひ幡鎌さんによる「はたらき――ひのきしん」(天理大学おやさと研究所編『天理教のコスモロジーと現代』天理大学出版部、2007年)もあわせてご参照いただければ幸いである。



後記

 「前記」でのべたとおり、本稿の基となる修士論文「天理教の「革新」と「復元」――戦争と〈ひのきしん〉から」(大阪大学大学院文学研究科、2006年)は、幡鎌一弘(「はたらき――ひのきしん」天理大学おやさと研究所編『天理教のコスモロジーと現代』天理大学出版部、2007年)によっていくつかの批判を受けた。ここでは、幡鎌の批判にたいして私なりの応答を試み、現時点での私の立場を明らかにしておきたい。
 幡鎌は、修士論文(「前記」で断ったように、それは本稿の序章から第三章にほぼ相当するので、以下では「本稿」と表記する)の後半部分(主に第二章のことと思われるが、第三章にもややかかわっている)における私の主張を、つぎの6点にまとめる(「はたらき」論文、87~88頁)。この整理については、私にもさしあたり異存はない。

①「ひのきしん」の表象の変化について、(1)一派独立以前、(2)一派独立~1920年代、(3)1930年代~敗戦、(4)敗戦直後、という時期区分を行ったこと。「教語の位置づけや意味する内容は歴史的に規定され変化していくもので、その形成過程を明らかにすることが重要である」ということ。
②(2)の時期に、教団が戊辰詔書を受け止めるなかで、「ひのきしん」が宣伝され始め、工場労働と結びつくなどし、「ひのきしん」の意味が根本的に変化したこと。
③(3)の時期の「いざ・ひのきしん隊」による戦争協力にたいする天理教の姿勢の問題点の指摘。
④(3)の時期の「ひのきしん」を通して、病気治しを中心とし、個人的救済を主眼とした天理教が、社会=国家に奉仕する宗教として変容した。
⑤「宗教のもっとも核心的な部分」の形成に国家や戦争がふかくかかわっている 。<註1>
⑥「ひのきしん」の「不変の核心」(諸井慶徳)などは(神学的な解釈を除き)歴史的には存在せず、それを前提として語られる「ひのきしん」の歴史は、「いざ・ひのきしん隊」の活動(つまりは戦争協力)を本質から逸脱したものと位置づける装置となっている。

 幡鎌は、このうち①②③⑤の主張には基本的に共感できるが、より具体的な論点についていえば、受けいれられない部分がある、とする。
 まず、幡鎌によれば、永岡は太平洋戦争中に「ひのきしん」と犠牲的精神(天皇・国家への奉仕)と天理教の精神とが等置されるようになり、戦後しばらくはそのような体制が続くが、「天理教教典」成立によって、「ひのきしん」の解釈が犠牲的精神から「たすけ一条の喜び」へと転換したとしている。つまり、永岡の説明では、教義としての「ひのきしん」は「天理教教典」の成立の前後で転換したかのようである。だが、「そのような教義転換の根拠がいつどこから生み出されてきたのか」を明らかにする必要があるはずだ(「はたらき」論文、88頁)。
 この「教義転換の根拠」を、幡鎌は明治末年から「革新」が断行されるまでに発表された言説のなかにみいだしているようだ。本稿でも言及した『みちのとも』の記事や、天理教の教理・実勢を紹介した『天理教綱要』(1930年版、1932年版)の〈ひのきしん〉にかんする記述を検討して、この時期の〈ひのきしん〉論には、私のいうような「犠牲的精神」を強調する論調だけでなく、親神への報恩・感謝も含みこまれている、と指摘する<註2> (「はたらき」論文、107頁)。幡鎌は、この後者の要素が、戦後の「天理教教典」につながる「教義転換の根拠」となったものと考えているのだろう。報恩・感謝の要素が「復元教典」につながっている、という幡鎌の見方が的確なものであることを、私もここで確認しておきたい。
 とはいえ、幡鎌の整理のなかでは、私の論旨がやや単純化されているように思われる。たしかに私は、「復元教典」成立のプロセスにおいて、「「犠牲」的宗教としての「天理教」から「たすけ一条の喜び」へ、戦前において支配的であった解釈からの転換がはかられていた」(本稿、210頁)とした。しかし他方で、「正善の戦前から継続する原典の研究・理解が「おふでさき」解釈を大筋で形成していったことはいうまでもない」(本稿、212頁)とものべている。つまり私は、「復元教典」の前後における思想的連続性を無視しているわけではなく、新しい教典によって、「たすけ一条の喜び」が天理教の言説空間のなかで支配的(ヘゲモニック)になっていった点を指摘したのである。おそらくこの点については、幡鎌と私の間にそれほど大きな隔たりはないのではないかと思うのだが、幡鎌のばあいは、正善だけでなく『天理教綱要』などにも「復元教典」につながる考えかたがみられる点を新たに指摘したということになるだろう。
 「復元教典」につながった思想的系譜を丁寧にたどることは、いうまでもなく重要な作業である。だが、ある思想が“存在していた”ことと、“広く浸透していた”こととは、まったくべつの問題だろう。すでに本文で検討していることがらであり、ここで繰りかえす必要はないが、戦前の天理教メディアで語られていた〈ひのきしん〉にかんする言説は、親神への報恩・感謝という要素を含みこみながら、明らかに「犠牲的精神」に強調点が置かれていた、と私はみている。たとえば第三章に引用した「わしらは泣いて果たすというような時代の教育を受けてるから、そう言われても〔喜んで果たす、つまり陽気ぐらしが大目標なのだという正善の説明が〕分かりにくかった」という中山慶一の発言は、そうした言説空間の状況を考慮しなければ、理解できないのではないだろうか。教典編纂の担当者においてさえ、「復元教典」は根本的な転換と受けとめられたのであり、この戸惑いの意味するところを、適切に汲みとる必要があるだろう。
 つぎに、幡鎌は、永岡は「「ひのきしん」の歴史叙述について、時代に制約された政治性にスライドさせてしまい、歴史観の根拠が十分深められなかった」(「はたらき」論文、89頁)とし、戦後の「おふでさき」解釈の変更にかんする私の議論(本稿第三章)をつぎのように批判する。「永岡は「から」「にほん」の教説の戦後における変更が、GHQによる政治体制下の産物であることを指摘」しているが、「とすれば、現在の解釈は占領政策の痕跡であって戦争の痕跡ではないということになる。しかし、私は、現在の解釈は、戦争体験に戦後が重なり合って構築されたものと考えている」(「はたらき」論文、125頁)。ここで幡鎌が言及している「戦争体験」としては、たとえば1946年版「おふでさき」釈義執筆を中心的に担ったとみられる上田嘉成が、中国の戦地から1939年に『みちのとも』に発表した文章があげられている。幡鎌によるなら、戦前の「おふでさき」釈義では、「根の国・日本と枝先の外国との秩序は、日本と外国の実態と重なり合って説明されていた」が、「上田は、自らの進む道に日章旗が立っていく、すなわち「から」が「にほん」になっていく戦争体験によって」、神意にかなったものはみな「にほん」となるのだ、とする理解に到達したのだという。ここから、1946年版の釈義では、「この戦争体験や国家観が脱落し、抽象的な理解のみが提示された」というわけである(「「復元」と「革新」」天理大学おやさと研究所編『戦争と宗教』,2006年、159‐161頁)。してみると、「から」「にほん」にかんする戦後の解釈は、日中戦争期にすでに準備されていたということになるだろう。
 重要な指摘だと思われるが、まったく疑問がないわけではない。引用されている上田の「日章旗の輝く所、之皆、神意の具現しつゝあるの地であります。どうして他国と思へませう」ということばは、抽象的・普遍主義的な立場のうえに、戦争体験や国家観がたんに付け加わっているだけのものなのだろうか。逆にいえば、このことばから戦争体験や国家観を「脱落」させれば、戦後の解釈になるといえるのだろうか。形式的にみれば、そのようにいえるかもしれないが、このときの上田にとって、普遍主義的立場と国家主義的立場とは、複雑に絡まりあっていて、単純に“足し算”や“引き算”によって転換できるものではないように思われる。むろん、「戦前の天理教のコスモロジーでは、普遍主義的な立場に立ちながら、日本という国家を内包し、そこから強烈な弾圧を受けつつも、ぢばを中心とした「根の国」の信憑構造を支えるものとして、国家(日本)が必要とされていた」(「「復元」と「革新」」、161頁)という箇所からもうかがわれるように、幡鎌も普遍主義と国家主義の複雑な絡まりには自覚的である。幡鎌の主張が重要なものであるからこそ、日中戦争期の上田の立場が、戦後の社会的・思想的状況のなかで、どのように「復元教典」へと転換していくのか、「脱落」の意味を問いなおし、その具体的なプロセスを明らかにしていく必要があるのではないだろうか。
 幡鎌の主張には若干の留保をつけたものの、「おふでさき」釈義の変更にかんして、私がGHQの占領政策が関連していたこと以外に有効な説明をなしえなかったことはたしかであり、幡鎌の批判はまったく正鵠を射ている。上記の疑問は、幡鎌に向けた問いである以上に、私自身の課題としてあるものだ。
 以上の批判点は、主として私の「復元」についての理解、ないし戦前・戦中・戦後の連続性と断絶にかかわるものであった。このほか、幡鎌は、永岡は「〈ひのきしん〉の「不変の核心」などは(神学的解釈を除き)歴史的には存在しない」(本稿204頁)としているが、「神学(教学)を除いて「不変の核心」を検討したことになっているのは、やや徹底を欠いていて、論文の意図するところが伝わってこない。永岡は、教義形成の問題を信者一般にまで拡散してしまい、問題を絞りきれなかったように思われる」(「はたらき」論文、89頁)と、本稿の第二章での議論を批判している。批判の意図を正しく理解できているか心もとないが、おそらく「不変の核心」ということばの捉え方において、幡鎌と私の間に隔たりがあるのではないだろうか。幡鎌が「不変の核心」ということばにどのような意味を読みこんでいるのか、はっきりとはわからないが、「不変の核心」など存在しない、という表現は私が意図した以上に強いニュアンスをもってしまったのかもしれない。問題となっているこのことばは、諸井慶徳が『ひのきしん叙説』(1946)において使用したものである。本稿第二章でのべたように、諸井は、〈ひのきしん〉が歴史的にさまざまな形で行われてきたことをいいつつも、「ひのきしんの本質」はけっして変化しておらず、「不変の核心が確乎として貫かれている」としていたのだった。むろん、事後的な観点から、史料に残された事例のなかになんらかの「不変の核心」を見いだそうとすることは可能だろう。だが、ある歴史的状況のなかで〈ひのきしん〉が言説化・教義化され、教義化されたものが実践され、さらに実践が教義へと影響を与えなおしていく過程で、〈ひのきしん〉と呼ばれるものが、いわば不可逆的な変容を蒙ってきているのではないだろうか。
 具体的には本稿でのべたとおりであるが、ここにはたとえば、天皇制をめぐる議論とも似た構造がみられるといえるかもしれない。安丸良夫は、天皇制を論じる言説のなかには、「天皇制をきわめて古い時代からの持続性においてとらえる」「連続説」と「天皇制が歴史のなかで大きく変容し断絶していることを強調している」「断絶説」があるとする。安丸は「もちろん、天皇制にかかわる制度や観念には古い由来をもつものも少なくないが、しかしそれらは近代天皇制を構成する素材として利用されて新しい意味を与えられたのだと考える」とし、自らは断絶説に立つとのべている(『近代天皇像の形成』岩波書店、1992→2001年、11‐12頁)。
 安丸の言い回しにならっていうなら、諸井は〈ひのきしん〉の連続説、私は断絶説をとっているということになるだろう。明治末年以降における、古い「素材」の利用の仕方、「新しい意味」の与え方のなかに、〈ひのきしん〉の大きな変容や断絶がみられる、と私はいっているのである。検討が「徹底を欠いて」いるという指摘は真摯に受け止め、今後の調査の糧としたいが、〈ひのきしん〉の歴史的変容にかんする大きな見通しそのものについて、修正する必要は感じていない。また、改めて強調しておきたいが、私は〈ひのきしんの歴史〉に断絶をもちこんで、諸井らが語る〈ひのきしん〉の伝統を失効させようなどと考えているわけではない。教学的な〈ひのきしんの歴史〉は、信仰上の規範として、とりわけ信者にとって重要なものでありつづけるだろうが、そうした歴史の語りとともに、その歴史の形成過程をも認識し、ふたつの歴史を往還することによって、個々の信仰者における〈ひのきしん〉の意味がより深みを帯びていくのではないだろうか。
 幡鎌と私の立場の違いがもっとも如実に表れているのは、私が「教義形成の問題を信者一般にまで拡散してしま」った、という箇所かもしれない。たしかに、教団幹部による教義形成に問題を絞りこんで議論を行っている幡鎌の諸論稿に比べ、本稿では教義の展開と一般信徒とのかかわりについても検討を試みている。
 実証の精度において、多くの不備があることは認めなければならないが、幡鎌のいう「拡散」は、私にとって必要なものであった。というのも、序章でのべているとおり、私は教義概念の形成を担うのは、教団幹部だけではないと考えているからである。多くの信者を抱え、歴史具体的な状況のなかで活動した宗教集団の姿をとらえるうえでは、「原典や教典などといったテクストにおいて教えられる内容はもとより、それらをもとにした説教、それらを解釈するスタイル、それらをもとにして行われる言語的・非言語的行為などによって構成される総体」として教義概念をとらえる必要があると考える。この観点からするなら、「問題を本部エリートの動向、思想だけに限定してしまうと、教義概念を構成する関係の網のうち一端をしか扱わないことになる。本部周辺からの呼びかけが、一般信者にどのように聞きとられ、それらが彼らの実践とどのように関わるのかを考える」ことが、私の課題であった(本稿169頁)。むろん、このように包括的に教義形成の問題を考えることは、きわめて困難な作業であり、本稿はその粗雑な素描にすぎないというべきだろう。
 以上、幡鎌による批判のうち、応答の必要があると判断したものについて、私の考えをのべてきた<註3>。少なからぬ批判を受けたにもかかわらず、幡鎌と私の議論は、基本的な問題関心において共通するところが大きいと思っている。それは、現在正統的な位置を占めている教義が形成されてきたプロセスを具体的に認識し、そこから改めて未来へ向けられた教義のありよう、そして信仰のありようを捉え返していこうとする姿勢である。両者には、天理教の信仰をもつ人間(幡鎌)/信仰をもたない人間(私)というスタンスの違いがあるが、教義の歴史的読解という課題にかんしていえば、協同することが可能であり、幡鎌の仕事に触発されながら、手をつけたばかりのこの大きな課題に取りくんでいきたいと思う。



<註1>ただし、細かなことだが、私は「宗教のもっと核心的な部分」(本稿、204頁)と書いている。国家や戦争という要素が、他の何にも増して「核心的」であるという主張はしていない。
<註2>私も、親神への報恩・感謝という要素を無視していたわけではないが、どちらかといえば否定的に扱い(たとえば本稿194頁)、「犠牲的精神」をとくに強調していたことはたしかである。
<註3>第二章における「いざ・ひのきしん」隊の活動にたいする評価についても、幡鎌は異見を提出している(「はたらき」論文、114-121頁)が、この点についてはすでに拙稿「天理教の戦争と「真情」のポリティクス――アジア・太平洋戦争期における「ひのきしん隊」の実践と信仰」(『日本思想史研究会会報』25号、2007年)において詳細にのべているので、ここでは繰りかえさない。




2016年8月7日日曜日

学会などでの報告・発言(新しい順)



【学会発表】

「世界連邦主義と大本―前進と捻じれの平和運動」、単独、日本宗教学会第77回学術大会テーマパネル「戦後日本の宗教者平和運動のトランスナショナル・ヒストリー」、2018年9月9日、大谷大学

「〈民衆宗教ナショナリズム〉の変容―アジア・太平洋戦争期における天理教と行政」、単独、第71回神道宗教学会学術シンポジウム「昭和戦中期の行政と宗教・神社」、2017年12月2日、國學院大學

「民衆宗教、あるいは帝国のマイノリティ」、単独、日本思想史学会創立50周年記念シンポジウム第1回「対立と調和」、2017年10月29日、東京大学

"Imperial Japan and New Religion: Modernity as Religiously Experienced"、単独、15th European Association for Japanese Studies International Conference、2017年9月1日、リスボン新大学、ポルトガル

「1930年代の大本と博覧会の思想」、単独、日本宗教学会第75回学術大会テーマパネル「宗教の時代としての1930年代―メディア・博覧会・反宗教―」、2016年9月11日、早稲田大学

「民衆宗教と1940年代」、単独、「宗教と社会」学会第22回学術大会、2015年6月14日、東京大学

「憑依の時空間と不和の共同体—明治期の天理教における病いの意味」、単独、Anthropogy of Japan in Japan 2014 autumn meeting、2015年11月30日、南山大学

「民衆宗教の政治性とはなにか」、単独、日本宗教学会第73回学術大会テーマパネル「近代日本の修養・精神療法・新宗教における身体論と国家論」、2014年9月14日、同志社大学
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「「二重構造」論をこえて―中山正善を中心に」、単独、「宗教と社会」学会第21回学術大会テーマセッション「天理教研究の現在―歴史から問う」、2014年6月22日、天理大学

「読みの運動とは何か―協働表象(論)を再考する」、単独、日本宗教学会第72回学術大会テーマパネル「宗教表象論再考―近現代日本における表象主体/客体の検討から」、2013年9月8日、國學院大學
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「病いのコスモロジーと宗教者の身体」、単独、「宗教と社会」学会第21回学術大会テーマセッション「「民衆宗教」研究の新展開(3)」、2013年6月16日、皇學館大學

「教祖論の系譜―史学史の一視角」、単独、日本思想史学会2012年度学術大会、2012年10月28日、愛媛大学

「協働表象(論)の基礎的考察」、単独、日本宗教学会第71回学術大会、2012年9月9日、皇學館大學
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「宗教文化は誰のものか」、単独、「宗教と社会」学会関西地区大会、2012年3月10日、佛教大学

「新宗教研究と複数の経路」、単独、日本宗教学会第70回学術大会、2011年9月4日、関西学院大学
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「「新宗教における先祖祭祀」研究の射程」、単独、日本宗教学会第69回学術大会テーマパネル「宗教の規範性・公共性・情念―孝本貢の業績をめぐって」、2010年9月4日、東洋大学
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「新宗教文化の脱教団的展開―思想としての教祖研究」、単独、日本宗教学会第68回学術大会テーマパネル「教祖伝の脱構築」、2009年9月13日、京都大学
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「戦争の痕跡と信仰―天理教のひのきしんをめぐって」、単独、日本宗教学会第67回学術大会、2008年9月15日、筑波大学
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「「聖戦」とひのきしん―天理教のアジア・太平洋戦争」、単独、東アジア宗教文化学会創立記念大会、2008年8月2日、韓国東義大学校

「「民衆宗教」研究のナラティヴと今日的意義」、単独、日本宗教学会第66回学術大会テーマパネル「「民衆宗教」研究の最前線」、2007年9月16日、立正大学
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「教祖の〈死〉の近代」、単独、日本宗教学会第65回学術大会テーマパネル「近代日本における死をめぐる語りと表象」、2006年9月18日、東北大学
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「天理教における「おさしづ」と本席体制」、単独、日本宗教学会第64回学術大会テーマパネル「憑依の近代とポリティクス」、2005年9月11日、関西大学
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【研究会などでの報告】

「モダニティとしての新宗教―迷信・宗教・帝国」、単独、シンポジウム「「日本の近代化と宗教」を捉え直す―「日本宗教史像の再構築」のために」(京大人文研「日本宗教史像の再構築」第25回研究会)、2017年3月20日、京都大学

「読みの運動としての天理教を読む」、単独、天理あおがきの集い、2016年10月26日、天理教中和大教会詰所

「1930年代の新宗教と展示という実践」、単独、ワークショップ「宗教とメディアの1930年代」(京大人文研「日本宗教史像の再構築」第20回研究会)、2016年8月19日、京都大学

「『大本七十年史』研究会・大本科研の取り組みと課題」、単独、『大本七十年史』研究会第15回例会、2016年6月4日、亀岡天恩郷

「歴史の語りと「現場」―民衆史の一断面」、単独、国際日本文化研究センター共同研究「人文諸学の科学史的研究」、2016年3月28日、国際日本文化研究センター

「日本における「宗教と科学」をめぐる言論状況」、単独、カリキュラム検討研究会、2015年12月12日、南山宗教文化研究所

「自己増殖する偽史―竹内文献の旅と帝国日本」、単独、立教大学日本学研究所公開シンポジウム「近代日本の偽史言説 その生成・機能・受容」、2015年11月7日、立教大学

「帝国神道の〈輪郭〉を考える―青野正明『帝国神道の形成:植民地朝鮮と国家神道の論理』を読んで」、単独、東アジア史学思想史研究会第 2 回例会、2015年10月3日、立命館大学

「不穏なるものたちと私たち」、単独、スユノモ+火曜会合同ワークショップ「共に考えるということ」、2015年8月27日、同志社大学

「「戦争と宗教」論再考―総力戦論への接続による」、単独、名古屋宗教社会学、2015年2月16日、南山宗教文化研究所

「村松晋氏『近代日本精神の位相』を読む―キリスト教史と精神史のあいだ」、単独、南山宗教文化研究所合評会、2014年9月26日、南山宗教文化研究所

「ソウルメイトは二重橋の向こうに―辛酸なめ子における皇室とスピリチュアリティ」、単独、イシバシ評論・秋の研究集会 '14、2014年9月20日、大阪大学

「前を向くことと振り返ること―戦後大本の平和運動についての覚書」、単独、佛教大学総合研究所共同研究「現代社会における宗教の力」、2014年8月27日、佛教大学

「教祖と欲望の系譜学―異端・特高・変態心理」、単独、国際日本文化研究センター共同研究「人文諸学の科学史的研究」、2014年7月24日、国際日本文化研究センター

「協働と教導―教学/宗教学にとって、宗教学/教学とは何か」、単独、平成26年度研究生教学論特別講座、2014年6月30日、金光教教学研究所

「霊魂をとらえ損ねる―神の声から考える民衆宗教大本」、単独、京都大学人文科学研究所共同研究「日本宗教史像の再構築」ワークショップ 「神の声を聴く―カオダイ教、道院、大本教の神託比較研究」、2014年6月28日、京都大学人文科学研究所

「第一篇第一章「開祖の前半生―開教にいたるまで」」、単独、『大本七十年史』研究会、2014年3月1日、同志社大学

「藤野陽平氏『台湾における民衆キリスト教の人類学』を読む―民衆宗教研究の立場から」、単独、南山宗教文化研究所合評会、2013年11月28日、南山宗教文化研究所

「天皇家カルトを内破するために―辛酸なめ子における皇室とスピリチュアリティ」、単独、宗教社会学の会、2013年4月10日、大阪国際大学

「教祖論は再-開する―新たな関係の生成に向けて」、単独、金光教大阪センター平成25年度研究集会、2013年3月27日、金光教大阪センター

「「神道系」新宗教研究の現在―「二重構造」論から読みの運動論へ」、単独、科研「近代宗教のアーカイヴ構築のための基礎研究」研究会、2013年2月10日、千葉大学

「戦前期中山正善における原典・収集・伝道」、単独、日本思想史研究会、2009年10月5日、立命館大学

「マヨネーズと両義性」、単独、第3回国際日本学研究会、2009年9月5日、高麗大学校

「新宗教文化の脱教団的展開―思想としての教祖研究」、単独、天理大学おやさと研究所宗教研究会、2009年1月31日、天理大学

「協働表象のために―教祖をめぐる読みの共同体を意識化する」、単独、宗教社会学の会、2008年12月7日、関西学院大学梅田キャンパス

「民衆宗教論はまだ使えるのか」、単独、日本思想史研究会、2008年11月20日、立命館大学

「宗教経験としての戦争協力―〈ひのきしん〉の歴史をめぐって」、単独、「民衆宗教」研究会、2008年10月3日、金光教大阪教会

「教祖研究における構成の仕事―安丸良夫と島薗進の実践をめぐって」、単独、「民衆宗教」研究会、2007年3月28日、金光教東京センター

「天理教における〈ひのきしん〉の実践と変容―アジア・太平洋戦争期を中心に」、単独、日本思想史研究会、2007年10月4日、立命館大学

「民衆宗教研究のナラティヴ―「ガラクタ」を拾いあつめる」、単独、日本思想史研究会夏季合宿、2007年9月、近江舞子

「帝国におけるマイノリティを考える」、単独、日本思想史研究会、2007年5月10日、立命館大学


以下、整理中



プロフィール


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2016年8月6日土曜日

書いたもの(新しい順)



【単著】

『新宗教と総力戦―教祖以後を生きる』、単著、2015年9月、名古屋大学出版会、368p.
本の紹介


【共著・編著】





















『日本宗教史のキーワード―近代主義を超えて』、共編(大谷栄一、菊地暁)、2018年8月、慶應義塾大学出版会、450p.
本の紹介

『近代日本の偽史言説―歴史語りのインテレクチュアル・ヒストリー』、共著(小澤実編)、2017年11月、勉誠出版、392p.(執筆担当部分:第3章「近代竹内文献という出来事―〝偽史〟の生成と制度への問い」、pp.90-120 (31p.))
本の紹介

『学問をしばるもの』、共著(井上章一編)、2017年10月、思文閣出版、384p. (執筆担当部分:「特高警察と民衆宗教の物語」、pp.95-109 (15p.))
本の紹介

『撰集 近代日本における宗教と科学の交錯』、共編(金承哲、T・J・ヘイスティングスほか5名)、2015年5月、南山宗教文化研究所、657p.
本の紹介

『ザ・タイガース研究論』、共著(磯前順一、黒崎浩之共編)、2015年2月、近代映画社、210p.(執筆担当部分:「ザ・タイガース 紙媒体露出記録リスト」水内勇太ほか4名と共著、pp.150-167)
本の紹介

 『語られた教祖―近世・近現代の信仰史』、 共著(幡鎌一弘編、宮本要太郎ほか5名)、 2012年3月、法藏館、270p.(執筆担当部分:第2章「新宗教文化の脱教団的展開―教祖研究の〈作法〉をめぐって」、pp.29-60(32p.))
本の紹介

『聖地再訪 生駒の神々―変わりゆく大都市近郊の民俗宗教』、共著(宗教社会学の会編、飯田剛史、三木英ほか11名)、2012年3月、創元社、278 p.(執筆担当部分:コラム「被調査者の反応、そして拾い損ねたことどもについて」、pp. 258-259(2 p.))
本の紹介

『憑依と近代のポリティクス』、共著(川村邦光編、ほか5名)、2007年2月、青弓社、245p. (執筆担当部分:第2章「歴史の記述と憑依―飯降伊蔵の「おさしづ」と親神共同体をめぐって」、pp. 87-113(27p.))
本の紹介


【論文】

「世界連邦主義と大本―人類愛善-平和運動の軌跡(上)」、単著、2019年3月、大谷栄一編『戦後日本の宗教者平和運動のトランスナショナル・ヒストリー研究』佛教大学社会学部大谷研究室、pp.121-133.(13p.)

「神国〈キッチュ仏教〉の世界―初期「生長の家」と「釈迦」たち」、単著、2018年10月、『現代思想』46巻16号、pp.243-256.(14p.)

「近代日本と民衆宗教という参照系―安丸良夫における「論理」と「活力」」、単著、2017年11月、『日本史研究』(日本史研究会)663号、pp.42-62.(21p.)
 本稿は、安丸良夫の思想史研究のなかでもきわめて重要な位置を占める、民衆宗教についての諸テクストを批判的に読みなおし、新たな展開可能性を探ろうとするものである。安丸のテクストにおいては、日本の民衆と民衆宗教とのあいだに、提喩的な関係が見出されていた。そうであれば、近代日本と民衆宗教との関係を問うことは、近代日本と民衆との関係を問うということにもなるはずだろう。こうした提喩法が切りひらく視座と、その問題性とをともに点検する必要がある。
 まず、「つきつめ」「論理」「活力」という、相互に連関しあった三つの語を手がかりとして、安丸民衆宗教論の構造を浮かび上がらせ、その可能性の幅を検証する。安丸の民衆宗教論は、宗教がもつ不穏な潜勢力と手を結んでエリート主義的な歴史意識を切り裂き、歴史の主体についての観念の再編を要求するものであり、通俗道徳的エートスのもつ両義性の発見、その「つきつめ」による民衆宗教の「論理」の抽出は、日本の歴史学に決定的な転換をもたらした。だが、つねにすでに失われた「本当の願望」への執着が、「論理」の外部への視野を制限してしまったことは否定できないだろう。
 他方で、安丸は人びとが発揮する不定形な「活力」への関心を持続させていた。それは民衆宗教運動を存立させ、駆動させるものでありながら、彼にとっては「論理」の領域を侵食する脅威ともなる。安丸はこの「活力」を前に立ち止まり、充分に分節化することができなかったといえるかもしれない。だが、「論理」と「活力」の緊張関係から、「歴史の縦深的な構造」の解明へとあらためて出立することができるはずだ。
 民衆宗教の集団性をつくりあげる「活力」が、教祖たちの「論理」とどのように切り結び、それを編成替えしていったのか、そしてそこから近代社会の全体性はどのように展望しうるのか。それは、残された者が引き受けて考えていくべき課題である。

"Revisiting the Rush Hour of the Gods: The People’s Religions of Après la Guerre and Postwar Japan", translated by Murayama Yumi, Asian Journal of Religion and Society, Korean Association for the Sociology of Religion, Volume 5 , Number 2, July 2017, pp.91-120.(30p.)

「霊魂をとらえ損ねる―神の声から考える民衆宗教大本」単著、2015年12月、『人文學報』(京都大学人文科学研究所)108号、pp.143-157.(15p.)
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 本稿は, 近代日本において「神の声を聴く」という営みがどのような宗教史的・思想史的可能性をもちえたのかを, 大本を事例として検討するものである。大正期大本の思想・実践は, 異端的な神話的世界を語り出しながら, 近代国家が排除した霊魂との直接的交流の道を開くものであった。しかしそれは, 霊魂を統御するという志向性を, 近代天皇制ないし靖国神社などと共有していた部分もあったのではないだろうか。鎮魂帰神法は, 霊魂を発動させて, 鎮静させ, 序列化する試みといえるのだが, それは逆にいえば, 鎮静化させ, 序列化するための発動であり, 高級霊/低級霊, 立替立直/病気治しのヒエラルキーを確認・創出するものでもあったのだ。ただし, 実践のレベルではそのプロセスには不確定領域が広がり, 統御を逃れ出る霊魂の運動を可能にすることになる。出口王仁三郎や浅野和三郎の意図する秩序は越境する霊魂と過剰な欲望によって裏切られてしまうのだ。国家主義的神道の秩序世界を掘り崩す可能性を内包していたのは, じつは王仁三郎の思想・実践そのものではなく, 人びとの野放図な欲望の法‐外さではなかったか。そして, その欲望を賦活する仕掛けとして, 鎮魂帰神法システムは再評価しうるのではないだろうか。近代日本に生きた多くの人びとは, おそらく天皇制国家を下支えする心性と, そこから逸脱しようとする欲望の双方を抱えていたのであり, 鎮魂帰神法の思想と実践は, その両義的なありようを浮かび上がらせ, そこにはらまれる緊張関係を開示してみせるものだったということができる。こうして, 鎮魂帰神法が霊魂をとらえ損ねる営みであったというところにこそ, 近代天皇制国家の論理へと還元されえない民衆宗教としての大正期大本の可能性を読み取ることができるのではないだろうか。

「ソウルメイトは二重橋の向こうに―辛酸なめ子における皇室とスピリチュアリティ」、単著、2015年9月、『人文學報』(京都大学人文科学研究所)107号、pp.103-129.(27p.)
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 本稿は、漫画家・エッセイスト辛酸なめ子の諸作品を読み解くことを通じて、現代日本における象徴天皇制やスピリチュアリティ文化と批判的に対峙する作法について思考するものである。現在、天皇は非政治性を建前とした「象徴」として、またスピリチュアリティ文化は過酷な競争社会を生きる現代人につかの間の「癒し」を提供するものとして、柔和で無害な相貌で存在しているようにみえる。だが、これらの文化/制度は、それを中心にして形成される「空気」のなかで、ときとして暴力性や抑圧性を露わにすることがある。このような暴力性・抑圧性に対する批判は多いが、外部的な視点に立ったイデオロギー批判に代表される従来の批評的言語は、ポストモダンな天皇制やスピリチュアリティ文化を前に、有効性を喪失してしまっているように思われる。そのようななか、興味深い批評の言葉を創出しているのが、辛酸なめ子の作品である。なめ子は、作品のなかで、皇室やスピリチュアリティ文化を題材として積極的に取り上げ、それらを戯画化することでユーモラスな世界を創造する。それは、外部者の立場から“本当のこと”を突きつけるという批判のスタイルが通用しない領域が広がっているなか、天皇制やスピリチュアリティ文化を構成する「空気」に亀裂を入れる批評の言語の可能性を示すものといえるのではないだろうか。

「「宗教」のなかの聖戦/聖戦のなかの「宗教」―天理教の〈ひのきしん〉と勤労報国」、単著、2013年9月、『日本思想史学』(日本思想史学会)45号、pp.181-198.(17p.)

「富士講的妄想力の近代―丸山教と問い」、単著、2013年9月、『現代思想』(青土社)41巻14号、pp.122-131.(10p.)

「宗教文化は誰のものか―『大本七十年史』編纂事業をめぐって」、単著、2013年3月、『日本研究』(国際日本文化研究センター)47号、pp.127-169.(43p.)
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 異なる立場の人びとが「知の協働制作者」として直接的に接触・交渉しあいながら宗教の歴史を描いていく営みを協働表象と名づけ、その意義を明らかにしようとするものである。その事例は、信仰者と宗教研究者が集まって1960年代に行われた『大本七十年史』編纂事業である。大本という宗教団体の70年にわたる歴史を描くというこの事業は、大本に集った人びとの過去だけでなく、現在と未来のありように密接にかかわるものであった。新宗教の矛盾や葛藤に満ちた歴史のなかに研究者が介入し、多様な信仰、多様な経験に秩序を与え、そのざわめきを鎮めていくことは、来るべき信仰や実践のありように規範を提示していくことでもある。彼らによって構築される大本の「本質」は、そこに回収されきらない多様な歴史的経験を排除するか、副次的なものとして劣位に置くことになる。だが、古参の信徒が抱えるそうした歴史的経験や、史料の読解よりも「本質」を優先させる物語の過剰にたいする若手研究者の反発は、首尾一貫した滑らかな歴史が内包する暴力性を浮き彫りにするのである。

「戦前期中山正善における原典・収集・伝道―宗教的世界の構築とその政治的位置をめぐって」、単著、2010年10月、『日本思想史研究会会報』(日本思想史研究会)27号、pp.65-94.(30p.)

「マヨネーズと両義性」、単著、2010年7月、『Cultures/Critiques』(国際日本学研究会)2号、pp.42-67.(26p.)

「飯降伊蔵と「おさしづ」の場―「親神」共同体の危機と再構築」、単著、2008年6月、『宗教研究』(日本宗教学会)356号、pp.143-166.(24p.)
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 天理教をめぐる従来の歴史的研究では、1887年に教祖の中山みきが"現身を隠す″と、親神への信仰によって結びつけられた共同体は合法的な宗教活動の道を探り、その過程で、国家権力への妥協・迎合が露骨に行われるようになったといわれてきた。こうした見方は一面では正しいが、国家協力の事例が強調される一方で、そうしたものの基盤となる、日常的な信仰の営みが見過ごされてきたのではないだろうか。本稿は、みきに代わって親神のことば=「おさしづ」を語り、信徒たちを指導した本席・飯降伊蔵を取り上げ、彼が「おさしづ」を語るにいたるプロセスを跡づけるとともに、信徒たちに注視される彼の心身や語りがどのように共同体を再構築し、信仰を再生産していったのかを明らかにする。伊蔵の「おさしづ」は、親神の意思として観念的に認められただけではなく伊蔵の身ぶりや声、病、語りのことば遣いなどが絶えずみきの記憶を喚起し、さらにそれらを変化させながら信徒たちの信仰を獲得していったのである。

「総力戦と「革新」する天理教」、単著、2008年3月、『近代日本における表象と語り』(平成18‐20年度文部科学省科学研究費補助金基盤研究(B)[家族写真の歴史民俗学的研究]中間報告書・課題番号18320141、研究代表者:川村邦光)、pp.159-227.(69p.)

「天理教の戦争と「真情」のポリティクス―アジア・太平洋戦争期における「ひのきしん隊」の実践と信仰」、単著、2007年12月、『日本思想史研究会会報』(日本思想史研究会)25号、pp.22-42.(21p.)

「教祖の〈死〉の近代―中山みきの表象=祭祀をめぐって」、単著、2007年3月、『大阪大学日本学報』(大阪大学大学院文学研究科日本学研究室)26号、pp.87-104.(18p.)

「歴史の記述と憑依―天理教における「おさしづ」と本席体制」、単著、2006年2月、『文化/批評』(文化/批評[cultures/critiques]編集委員会)冬季号、pp.59-80.(22p.)

「飯降伊蔵論―「おさしづ」と本席体制」、単著、2005年3月、『文化/批評』(文化/批評[cultures/critiques]編集委員会)春季号、pp.291-331.(41p.)


【研究ノート】

「戦後大本の平和運動をめぐる覚え書」、単著、2019年3月、『佛教大学総合研究所紀要』(佛教大学総合研究所)26号、pp.19-26.(8p.)

 大本は、1950〜60年代における日本の宗教者平和運動のなかで、もっともアクティヴな活動をおこなった集団のひとつである。世界連邦運動と原水爆禁止運動に代表される彼らの活動が、戦前期における聖師・出口王仁三郎の思想・実践を受け継いだものであることはよく知られている。だが、その戦前ー戦後の連続性がいかなる葛藤を孕み、戦後の政治状況でどのような意味をもつものであったのかは充分に認識されていない。本稿では、大本の平和運動をめぐる従来のナラティヴを批判的に検討し、この問題にとりくむための予備的な考察を行っている。

「民衆宗教、あるいは帝国のマイノリティ」、単著、2018年10月、『日本思想史学』(日本思想史学会)50号、pp.3-11(9p.)

「教祖の家族写真をめぐる覚え書」、単著、2016年3月、『Cultures/Critiques』(国際日本学研究会)別冊、pp.378-390.(13p.)

「協働表象のためのノート―金光教と民衆宗教論の接触と交渉を中心に」、単著、2010年10月、『東アジアの思想と文化』(東アジア思想文化研究会)3号、pp.53-70.(18p.)

「安丸良夫と「民衆」の原像―『出口なお』について」、単著、2006年3月、『大阪大学日本学報』(大阪大学大学院文学研究科日本学研究室)25号、pp.107-125.(19p.)


【研究史】

「民衆宗教研究の現在―ナラティヴの解体にむきあう」、単著、2017年9月、『日本思想史学』(日本思想史学会)49号、pp.54-67.(14p.)


【書評】

「川橋範子・小松加代子編『宗教とジェンダーのポリティクス : フェミニスト人類学のまなざし』」、単著、2018年6月、『宗教と社会』(「宗教と社会」学会)24号、pp.134-139.(6p.)

「青野正明『帝国神道の形成―植民地朝鮮と国家神道の論理』を読む」、単著、2016年11月、『東アジアの思想と文化』(東アジア思想文化研究会)8号、pp.184-191(8p.)

「岩田文昭著『近代仏教と青年―近角常観とその時代』/碧海寿広著『近代仏教のなかの真宗―近角常観と求道者たち』」、単著、2016年6月、『宗教と社会』(「宗教と社会」学会)22号、pp.43-46(4p.)

「書評 塚田穂高著『宗教と政治の転轍点―保守合同と政教一致の宗教社会学』」、単著、2016年5月、『近代仏教』(日本近代仏教史研究会)23号、pp.193-197.(5p.)

「書評 村上興匡・西村明編『慰霊の系譜―死者を記憶する共同体』」、単著、2015年9月、『近代仏教』(日本近代仏教史研究会)22号、pp.75-77.(3p.)

「書評 Paul L. Swanson, ed., Pentecostalism and Shamanism in Asia」、単著、2014年6月、『宗教研究』(日本宗教学会)88巻1号、pp.220-226.(7p.)
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【討議・座談会】

「討議 歴史としての神道―神道の可能性をめぐって」、伊藤聡、昆野伸幸、斎藤英喜氏と共著、2017年1月、『現代思想』(青土社)2017年2月臨時増刊号、pp.172-198.(17p.)


【新聞記事】

「安丸良夫さんからの宿題に」『京都新聞』2017年4月14日付


【事典項目】

「修行」「守護神(守護霊)」「神像・神体」「断食」、単著、pp.847-848、848-850、857-859
「瞑想」、吉見由起子と共著、pp.895-896
「アイヌ」、川村邦光と共著、pp.437-456
以上、山折哲雄監修『宗教の事典』、2012年10月、朝倉書店、919p.


【資料紹介】

「南山宗教文化研究所「孝本貢文庫」について」、単著、2013年6月、『南山宗教文化研究所研究所報』(南山宗教文化研究所)23号、pp.30-45(16p.)
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【解説など】

「解説・宗教者は「宗教」の淵を覗く」、単著、2012年2月、『コンフリクトの人文学』(大阪大学グローバルCOEプログラム・コンフリクトの人文学国際研究教育拠点)第4号、pp.235-241.(7p.)


【ワークショップレポート】

「シャーマニズム研究から歌の人間学へ―痛みの声を聴く耳を育む試み」、単著、2012年3月、『Cultures/Critiques』(国際日本学研究会)臨時増刊号、pp.149-156.(8p.)

「台湾キリスト教への一視座―藤野陽平『台湾における民衆キリスト教の人類学』合評会」、長澤志穂氏と共編、2014年5月『南山宗教文化研究所研究所報』(南山宗教文化研究所)24号、pp.26-39(14p.)
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【講演記録】

「教祖論は再-開する―新たな関係の生成へ向けて」、単著、2013年6月、『大セレポート』(金光教大阪センター)第3号、pp.2-6.(5p.)


【その他】

「「職場の歴史をつくる会」関連年表」竹村民郎編『〔編集復刻版〕「職場の歴史」関係資料集』六花出版、2017年11月、pp.17-20. (4p.)

「みちのものがたり キリスト街道 青森県:神の子イエスここに眠る!?」『朝日新聞be』2017年7月15日付、でコメント掲載

「新書介紹 『新宗教と総力戦―教祖以後を生きる』/永岡崇」、単著、2016年12月、『臺灣佛教研究』5巻2期