(永岡崇・日沖直子編『第二次大本事件獄中書簡資料集―星座たよりー』駒澤大学総合教育研究部文化学部門永岡研究室、2022年3月より転載。文中に「本資料集」とあるのはこの冊子のこと)
この資料集は、1935年12月にはじまる第二次大本事件において、獄中にあった出口王仁三郎と妻の出口すみ、および彼らの娘婿にあたる出口新衛が家族らに宛てて書き送った書簡の目録と、書簡の一部の翻刻を中心として、研究者による解説を付したものである。これらの書簡は、新衛の三女である出口雅子氏が京都府亀岡市の自宅に所蔵しているもので、雅子氏には資料集としての公開をご快諾いただくとともに、序文を寄せていただくことができた。なお、資料の概要については、本資料集所収の日沖直子「第二次大本事件未決囚の「獄中書簡」―出口雅子氏所蔵書簡史料について」を参照されたい。
近代日本における最大の宗教弾圧といわれる第二次大本事件は、これまでさまざまな角度から論じられてきた。たとえば天皇制国家(あるいは国家神道)と民衆宗教の対立構図を象徴するものとして、治安維持法体制の強化・変容を示すものとして、特高警察の暴力的な捜査・尋問の典型として、そして過酷な弾圧を耐え抜いた信者たちの信仰の精華として(1)。これらの諸研究を見わたすと、主として“検挙にいたるまでの過程”と“監獄の外側”に関心が集中してきたように思われる。その一方で、“監獄の内側”に閉じこめられた王仁三郎らの動向だけが、ブラックボックスのまま取り残されてきたのではないだろうか。もちろん彼らの動向といっても、狭い獄中にあって外部との交信も厳しく制限された状況で、はたして検討に値する内実があったのか、という疑問も出されてしかるべきだろう。
しかし、拘留期間が最長だった王仁三郎と出口伊佐男(三女・八重野の夫で、王仁三郎の側近として活躍)の場合、獄中生活は1935年12月から42年8月まで、じつに6年8ヶ月に及んでおり、等閑にするにはあまりにも長すぎる。つねに時代と切り結びながら激しく活動してきた王仁三郎が、監獄のなかでどのように来し方を振り返り、日中戦争から太平洋戦争にいたる総力戦の時代をまなざしていたのか、きわめて興味深い問題がそこには横たわっているはずだ。
出口王仁三郎研究におけるこの6年8ヶ月の意味を考えるうえで、「籠り」についての川村邦光の議論は示唆的である。川村は、中山みき(天理教)や出口なお(大本)、北村サヨ(天照皇大神宮教)のような新宗教の教祖たちが、はじめての神がかりのあと、能動的/受動的に一定期間の「籠り」を経験していることに着目した。みきは屋敷内の蔵で、なおは座敷牢で、サヨの場合は山の中で孤独な時を過ごしている。川村によれば、そこは神がかりを契機に彼女たちに焼き付けられた「狂気」の烙印、スティグマを自覚的に引き受け、自己神化を遂げるための象徴的空間だった。外界に出たあと、地域を巡り、籠りの空間で充填された霊威を発揮することで、彼女たちの帯びたスティグマはカリスマへと転換させられ、地域の巫者的存在として認められていく。さらに幾度かの籠りと巡りを繰り返しながら、彼女たちは新たな宗教伝統の教祖へと変貌を遂げていったのだという(2)。
王仁三郎の場合にも、籠りと巡りという主題が反復され、それらが新たな局面を切り開いていったことを指摘できる。彼は高熊山への籠りを宗教家としての出発点とし、第一次大本事件での拘留は『霊界物語』の口述や入蒙をはじめとする国際的活動への転換をもたらす契機になった。では、第二次大本事件での長い籠りはどうか。1942年夏の保釈、あるいは45年の事件終結から48年の死まで、王仁三郎に残された時間はそれほど多くなかったが、彼はこの間に、万教同根・平和主義にもとづく戦後大本教団の基本的方針を指し示す役割をはたした。戦後、第二次大本事件は大本の戦争への非協力を体現するものとなり、王仁三郎らの籠りの経験は“法難”として新たな光を放つようになったのである(3)。
王仁三郎は、監獄を「オリオン星座」と呼んでいた。星の配列が「囚」の字に似ているところからだという(4)。保釈後に獄中を回顧した歌集『朝嵐』のなかで、彼は「一息の風さへ入らぬオリオンの星座にあれば汗のにじむも」「夏の日の星座の暑さ苦しみをなめつつ友の身を思ふかな」などと詠っている(5)。とはいえ、彼はたんに獄中の厳しさを嘆いていただけではなかった。たとえば「現世の穢れを洗ひ清むべき修行するなるオリオン星座よ」という歌には、籠り修行の場としての監獄というイメージがはっきりと表れているし、「オリオンの星座はげにもせまけれど太平洋の如く広かり」では、籠りの場の空間的な狭隘さを突破する精神的な広大さが謳われている(6)。「オリオン星座」は王仁三郎の著作にしばしば登場するイメージで、第二次大本事件で破壊された亀岡の月宮殿は「オリオン星座を地にうつす」ものだとされ(7)、彼の背中にある黒子が「オリオン星座」の形をしていたともいわれている(8)。それは王仁三郎自身や大本の聖地をも表す複雑な象徴性を帯びていたのであり、監獄という場もこうした意味連関のなかで理解する必要があるように思われる。
当時の王仁三郎の心象をうかがう手がかりとしては、上述の『朝嵐』があるほか、信者の木庭次守が直接・間接に見聞きした言行録『新月の光』などが知られている。これらの史料の重要性はいうまでもないが、監獄という現場で書かれた一次的な史料として、本資料集で紹介するものをふくめた書簡類にも大きな意義が認められるだろう。雅子氏所蔵の王仁三郎書簡は1936年5月から41年5月にかけての73通、そのほとんどが娘たちに宛てたものである。『新月の光』が王仁三郎の断片的な予言や教え、裁判の趨勢をめぐる意見などを中心に収録しているのに対して、これらの書簡は家族への配慮や自身の体調、差し入れ品についてなど、非政治的・非宗教的な話題が大半を占めている点に特徴がある(もちろん、そこに獄中からの通信に対する検閲の影を読み取ることはたやすい)。強力なカリスマで信者を魅了し、社会に旋風を巻き起こした宗教指導者としての顔とは異なる、“父”としての王仁三郎の一面が表れていると、とりあえずはいえる。
ただし、王仁三郎における公と私、社会・教団と家庭を単純に分離してよいかどうかには、留保が必要なのではないだろうか。第二次大本事件勃発から半年ほどが経過した1936年夏ごろの書簡で、王仁三郎は娘たちに長女の朝野(長女で戦後に三代教主となる出口直日のこと)を支えるよう、繰り返し訴えていた。主要幹部が投獄されているなかで、「今日の処朝野が肝心の人」(資料053)なのであり、「朝野に/色々言つてやり度くそして安心/させ度候けれども■■■■■■■/■■自由を得ず」(資料323、■は検閲による削除)と、もどかしい思いを吐露しているのである。朝野自身、警察の監視下で転居を余儀なくされ、この年6月末から1週間綾部署に留置されるなど、過酷な生活に心身を疲弊させていた(9)。王仁三郎も「朝野/はこの侭にしておいたらヒスになる/かと 日頃案じてゐます」(資料328)と、彼女の体調に不安を感じていたことがわかる。また、11月には「私も朝野にはしか/られ梅のにはおこられてし/まひました・もうたよりも/みあはすつもりでおります/おやの心は今の人には中々/わかりません」(資料041)と記している。朝野に何を「しかられ」たのかは不明だが、王仁三郎は留守を預かる朝野らとの行き違いに心を痛めていたようだ。これらの資料は、王仁三郎と後継者・直日との関係性について考えるうえで示唆的であり、そこに垣間見える王仁三郎の“弱さ”は、宗教家としての彼の変化、もしくは多面性の理解にもつながる可能性がある。もちろん、今回紹介する書簡類から明らかにしうることには限界があるのだが、各所に分散して存在するであろう他の書簡が発見され、読み解きが進められれば、監獄における王仁三郎のイメージが明瞭に浮かび上がってくるのではないだろうか。
王仁三郎の話が長くなったが、出口すみや出口新衛の書簡にも重要な歴史的意味がある。母・出口なおの筆先を彷彿させる独特の書体で書かれたすみの書簡からは、家族から送られてくる写真を楽しみに待つ獄中の暮らしがよく偲ばれるが、それだけではない。幼い孫娘に宛てた手紙のなかで、すみは「きよわめでたき/よきひなりせかいの/にほんにしたがうしるしび」(資料077)という歌を記している。日付は1942年2月18日、シンガポール陥落を受けて大東亜戦争戦勝祝賀第一次国民大会が開かれた日である。戦後、世界連邦運動を熱心に支持することになる彼女の、事件当時の戦争観を考えるうえで重要な資料だといえるだろう。
一方、新衛は一般によく知られた人物とはいえないが、本資料群のなかで量的にもっとも多く、戦時期に獄中にあったひとりの人物の生活と思考のまとまった記録として貴重である。家族に対する思いのほか、短歌や読書、食養生、坐禅といった彼の関心事をめぐる記述も興味深い。監獄史におけるこれらの書簡の意義については、本資料集所収の兒玉圭司「監獄制度史(行刑史)研究からみた本史料の意義」を参照していただきたい。
本資料集は、第Ⅰ部「解説編」と第Ⅱ部「資料編」から構成されている。資料編では、書簡の写真を一部掲載するとともに、とくに重要と思われる書簡を選んでその翻刻文を公開する。巻末には、すべての書簡資料の目録を掲載している。また、理解の便宜のため、出口家の略系図および関連の年表も付した。
なお、本資料集は、文部科学省科学研究費補助金基盤研究(C)「複眼的視点からの大本教研究―データベース構築と国際宗教ネットワークの研究」(研究代表者:對馬路人、2015~2017年度、課題番号15K02068)、文部科学省科学研究費補助金基盤研究(B)「日本新宗教史像の再構築―アーカイブと研究者ネットワーク整備による基盤形成」(研究代表者:菊地暁、2018~2021年度、課題番号18H00614)による成果の一部である。
注
(1)たとえば村上重良『近代民衆宗教史の研究』法藏館、1958年、大本七十年史編纂会『大本七十年史』下巻、宗教法人大本、1967年、小池健治・西川重則・村上重良『宗教弾圧を語る』岩波新書、1978年、川村邦光『出口なお・王仁三郎―世界を水晶の世に致すぞよ』ミネルヴァ書房、2017年、など。また、本資料集所収の出口雄一「法制史の観点からみた第二次大本事件」も参照されたい。
(2)川村邦光「スティグマとカリスマの弁証法―教祖誕生をめぐる一試論」『宗教研究』253号、1982年、参照。
(3)永岡崇『宗教文化は誰のものか―大本弾圧事件と戦後日本』名古屋大学出版会、2020年、参照。
(4)木庭次守編『出口王仁三郎玉言集 新月の光(下)』八幡書店、2002年、参照。
(5)上田正昭編『出口王仁三郎著作集 第5巻』読売新聞社、1973年、232頁。
(6)同書、240・231頁。
(7)出口王仁三郎『水鏡―如是我聞』第二天声社、1928年、209頁。
(8)井上留五郎『暁の烏』天声社、1925年、参照。
(9)大本本部編『天地和合―大本三代教主出口直日の生涯』天声社、2015年、参照。