2022年5月21日土曜日

ナヨン・エィミー・クォン『親密なる帝国:朝鮮と日本の協力、そして植民地近代性(コロニアル・モダニティ)』訳者あとがき補遺(その1)

 仲間たちとの共訳で、ナヨン・エィミー・クォン『親密なる帝国:朝鮮と日本の協力、そして植民地近代性(コロニアル・モダニティ)』(人文書院)を刊行した。Intimate Empire: Collaboration and Colonial Modernity in Korea and Japan, Duke University Press, 2015の全訳である。

出版社による内容紹介は以下のとおり。

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日本と朝鮮、戦時下における文化「協力」

〈内鮮一体〉の掛け声のもと一度は手を取り合いながら、戦後には否認された数々の経験と記憶。忘れ去られたその歴史を掘り起こし、「協力vs抵抗」では捉えきれない朝鮮人作家たちの微細な情動に目を凝らす。日本と朝鮮半島に共有された植民地近代という複雑な体験がもたらす難問に挑み、ポストコロニアル研究に新たな光を当てる画期作。

「本書で論じられるのは、「韓国(朝鮮)と日本の近代史において親しく分有され、しかし否認されてきた植民地的過去と、アジア・太平洋地域において争われているその遺産の広範な意味」である。植民地末期に活躍した金史良(キムサリャン)、張赫宙(チャンヒョクチュ)、姜敬愛(カンギョンエ)ら植民地朝鮮出身作家とその作品は、日本帝国の崩壊後、日本では忘却もしくは周縁化され、韓国と北朝鮮では対日協力と抵抗の二分法的論理に基づいて分類・評価されてきた。クォンは、これらの作品が――植民地期からポストコロニアル期にかけて――生産/翻訳/消費されるプロセスを徹底して追跡することによって、記憶の抹消や固定的な二分法を乗り越え、コロニアルな近代経験が孕む難問(コナンドラム)を明るみに出していく。」(訳者あとがきより)

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翻訳書刊行にいたる経緯や本書の魅力については、巻末の「訳者あとがき」にも少々記したが、他人の著作なのにあまりいい加減なことは書けないという気持ちもあり、控えめな感じになってしまった。そこで、極私的な感想や自分なりの応用可能性について、このブログで少し書き留めておこうかと思う。

本書でとりあげられるのは、植民地朝鮮の作家たちとその作品、そして彼らをとりまく複雑でトランスコロニアルな力学、そしてポストコロニアルの現在における記憶の政治学である。ジャンルとしては文学が中心になるが、静態的な作品分析に終始するわけではない。メディアミックス的な展開もふくめ、文学行為の政治的・社会的意味が多角的に分析されている。
かつて、「内地」の人間が朝鮮出身作家の作品をアタリマエのように日本語で読むことができたのはなぜなのか、その前提条件である翻訳という行為がまず問題になる。とりあえず、朝鮮語で書かれた作品を日本語に訳すというもっとも一般的な意味での翻訳。朝鮮人の作家が自分の朝鮮語作品を翻訳することもあれば、最初から日本語で書く場合もあった。朝鮮出身作家の作品が、翻訳の有無を明示せずに掲載されることもしばしばあり、「内地」の者たちは、あたかもそれらがもともと日本語で書かれたものであるかのように、苦もなく読むことができた。本書で引用されている、とある日本人文芸評論家のように。
大した作品でもないものをここにとくに委しくのべたのは、それによつて現在の朝鮮文学がどんなものであるかを暗示したいからである。(中略)或る深い、或ひは新らしい観点、極めて個性的である筈のものなどは見出されない。(板垣直子『事変下の文学』(『近代文芸評論叢書』22巻、『親密なる帝国』104頁)
朝鮮の作家の作品を当然のように日本語で読んで、なにやらエラそうに品評している。自分が朝鮮語を理解できないことを棚に上げ、朝鮮出身作家が日本語で、近代的な「小説」形式にあわせて書くために注ぎ込まれた膨大な労力を一顧だにせず、文学的価値の判定者としての自分の資格を疑う気配もない。さらにこの人はご丁寧に満洲と朝鮮の文学を比べて、朝鮮文学のほうがちょっとだけ進歩しているなどとのたまっている。

読んでいるこちらが恥ずかしくなるような文章だが、「翻訳」された膨大な情報を浴びるように消費している僕たちにとっても、それはけっして他人事ではない。スマートフォンやコーヒーと同じように、言語的生産物もまた、翻訳という労働の苛烈な搾取のうえに成り立っていることを、本書ははっきりと思い知らせてくれる(AI翻訳技術の発達が状況に変化をもたらすのかもしれないが、その変化がどの程度根本的なものなのかはよくわからない)。

本書の分析は、朝鮮出身作家が日本語で書く場合に生じる内面的な翻訳、そしてそれが作者にもたらす主体性の分裂にも及んでいる。とくに3~5章で詳論される金史良は、朝鮮語と日本語両方で作品を書いたが、著者クォンが金に見出すのは、両言語を自在に操って宗主国文壇で活躍する特権的な主体ではなく、宗主国側からも朝鮮人側からも圧力を受け、それらと自分自身の文学的欲望とのはざまで引き裂かれる困難な主体なのだ。そんな彼をクォンはマイナー・ライターと呼び、テクストレベルとメタテクストレベルの両面からとらえることで、彼が追い込まれた難問(conundrum)、そして同時に帝国日本が経験した植民地近代を浮き彫りにしていく。

金の短編「光の中に」は、1940年の芥川賞を寒川光太郎の「密猟者」と争い、最終的に第二席となっている。クォンは選考委員たちのコメントから、金のようなマイナー・ライターに対する宗主国文壇のアンビヴァレントな欲望を析出する。要するに彼らはこの朝鮮人作家を同化のシンボルとして祭り上げつつ、同時に彼を巧妙に排除することを望んだのである。そしてこの作品は日本の「私小説」という枠組みに組み入れられ、しかし同時に集合的な朝鮮問題の表象としても消費される(「植民化された私小説」)。金はこうした評価に戸惑い、主体の分裂を抱えながら創作を続けたのだった。

こうした同化と差異化の不安定な戯れは、植民者と被植民者の双方を不安にさせていた。クォンは、芥川賞選考委員が西洋の文学的規範の権威に依存し、選考の正当性を演出しようとする身ぶりを分析したうえで、「寒川の方がよりすぐれた候補者であるという点で一致しているようにみえるのに、彼らはそろって弁解がましく、その結論を少なからず出ししぶっている」という点に注目する(100頁)。それは、近しい隣人を包摂しつつ排除しようとする、この極東の帝国を悩ませた矛盾した欲望の不可能性を示す徴候なのである。こういう、テクストにあらわれる微細な揺らぎを丁寧に、誤解を恐れずにいえばいやらしくすくい取っていく手法のなかに、『親密なる帝国』の卓越した特長があるのだと思う。

クォンが本書で展開する(翻訳者泣かせの)仕掛けはほかにもいろいろとあり、暇をみてもう少し書き連ねていきたい。
(つづく)

2022年3月25日金曜日

はじめに:オリオン星座の日々へ

(永岡崇・日沖直子編『第二次大本事件獄中書簡資料集―星座たよりー』駒澤大学総合教育研究部文化学部門永岡研究室、2022年3月より転載。文中に「本資料集」とあるのはこの冊子のこと)


 この資料集は、1935年12月にはじまる第二次大本事件において、獄中にあった出口王仁三郎と妻の出口すみ、および彼らの娘婿にあたる出口新衛が家族らに宛てて書き送った書簡の目録と、書簡の一部の翻刻を中心として、研究者による解説を付したものである。これらの書簡は、新衛の三女である出口雅子氏が京都府亀岡市の自宅に所蔵しているもので、雅子氏には資料集としての公開をご快諾いただくとともに、序文を寄せていただくことができた。なお、資料の概要については、本資料集所収の日沖直子「第二次大本事件未決囚の「獄中書簡」―出口雅子氏所蔵書簡史料について」を参照されたい。

 近代日本における最大の宗教弾圧といわれる第二次大本事件は、これまでさまざまな角度から論じられてきた。たとえば天皇制国家(あるいは国家神道)と民衆宗教の対立構図を象徴するものとして、治安維持法体制の強化・変容を示すものとして、特高警察の暴力的な捜査・尋問の典型として、そして過酷な弾圧を耐え抜いた信者たちの信仰の精華として(1)。これらの諸研究を見わたすと、主として“検挙にいたるまでの過程”と“監獄の外側”に関心が集中してきたように思われる。その一方で、“監獄の内側”に閉じこめられた王仁三郎らの動向だけが、ブラックボックスのまま取り残されてきたのではないだろうか。もちろん彼らの動向といっても、狭い獄中にあって外部との交信も厳しく制限された状況で、はたして検討に値する内実があったのか、という疑問も出されてしかるべきだろう。

 しかし、拘留期間が最長だった王仁三郎と出口伊佐男(三女・八重野の夫で、王仁三郎の側近として活躍)の場合、獄中生活は1935年12月から42年8月まで、じつに6年8ヶ月に及んでおり、等閑にするにはあまりにも長すぎる。つねに時代と切り結びながら激しく活動してきた王仁三郎が、監獄のなかでどのように来し方を振り返り、日中戦争から太平洋戦争にいたる総力戦の時代をまなざしていたのか、きわめて興味深い問題がそこには横たわっているはずだ。

 出口王仁三郎研究におけるこの6年8ヶ月の意味を考えるうえで、「籠り」についての川村邦光の議論は示唆的である。川村は、中山みき(天理教)や出口なお(大本)、北村サヨ(天照皇大神宮教)のような新宗教の教祖たちが、はじめての神がかりのあと、能動的/受動的に一定期間の「籠り」を経験していることに着目した。みきは屋敷内の蔵で、なおは座敷牢で、サヨの場合は山の中で孤独な時を過ごしている。川村によれば、そこは神がかりを契機に彼女たちに焼き付けられた「狂気」の烙印、スティグマを自覚的に引き受け、自己神化を遂げるための象徴的空間だった。外界に出たあと、地域を巡り、籠りの空間で充填された霊威を発揮することで、彼女たちの帯びたスティグマはカリスマへと転換させられ、地域の巫者的存在として認められていく。さらに幾度かの籠りと巡りを繰り返しながら、彼女たちは新たな宗教伝統の教祖へと変貌を遂げていったのだという(2)

 王仁三郎の場合にも、籠りと巡りという主題が反復され、それらが新たな局面を切り開いていったことを指摘できる。彼は高熊山への籠りを宗教家としての出発点とし、第一次大本事件での拘留は『霊界物語』の口述や入蒙をはじめとする国際的活動への転換をもたらす契機になった。では、第二次大本事件での長い籠りはどうか。1942年夏の保釈、あるいは45年の事件終結から48年の死まで、王仁三郎に残された時間はそれほど多くなかったが、彼はこの間に、万教同根・平和主義にもとづく戦後大本教団の基本的方針を指し示す役割をはたした。戦後、第二次大本事件は大本の戦争への非協力を体現するものとなり、王仁三郎らの籠りの経験は“法難”として新たな光を放つようになったのである(3)

 王仁三郎は、監獄を「オリオン星座」と呼んでいた。星の配列が「囚」の字に似ているところからだという(4)。保釈後に獄中を回顧した歌集『朝嵐』のなかで、彼は「一息の風さへ入らぬオリオンの星座にあれば汗のにじむも」「夏の日の星座の暑さ苦しみをなめつつ友の身を思ふかな」などと詠っている(5)。とはいえ、彼はたんに獄中の厳しさを嘆いていただけではなかった。たとえば「現世の穢れを洗ひ清むべき修行するなるオリオン星座よ」という歌には、籠り修行の場としての監獄というイメージがはっきりと表れているし、「オリオンの星座はげにもせまけれど太平洋の如く広かり」では、籠りの場の空間的な狭隘さを突破する精神的な広大さが謳われている(6)。「オリオン星座」は王仁三郎の著作にしばしば登場するイメージで、第二次大本事件で破壊された亀岡の月宮殿は「オリオン星座を地にうつす」ものだとされ(7)、彼の背中にある黒子が「オリオン星座」の形をしていたともいわれている(8)。それは王仁三郎自身や大本の聖地をも表す複雑な象徴性を帯びていたのであり、監獄という場もこうした意味連関のなかで理解する必要があるように思われる。

当時の王仁三郎の心象をうかがう手がかりとしては、上述の『朝嵐』があるほか、信者の木庭次守が直接・間接に見聞きした言行録『新月の光』などが知られている。これらの史料の重要性はいうまでもないが、監獄という現場で書かれた一次的な史料として、本資料集で紹介するものをふくめた書簡類にも大きな意義が認められるだろう。雅子氏所蔵の王仁三郎書簡は1936年5月から41年5月にかけての73通、そのほとんどが娘たちに宛てたものである。『新月の光』が王仁三郎の断片的な予言や教え、裁判の趨勢をめぐる意見などを中心に収録しているのに対して、これらの書簡は家族への配慮や自身の体調、差し入れ品についてなど、非政治的・非宗教的な話題が大半を占めている点に特徴がある(もちろん、そこに獄中からの通信に対する検閲の影を読み取ることはたやすい)。強力なカリスマで信者を魅了し、社会に旋風を巻き起こした宗教指導者としての顔とは異なる、“父”としての王仁三郎の一面が表れていると、とりあえずはいえる。

 ただし、王仁三郎における公と私、社会・教団と家庭を単純に分離してよいかどうかには、留保が必要なのではないだろうか。第二次大本事件勃発から半年ほどが経過した1936年夏ごろの書簡で、王仁三郎は娘たちに長女の朝野(長女で戦後に三代教主となる出口直日のこと)を支えるよう、繰り返し訴えていた。主要幹部が投獄されているなかで、「今日の処朝野が肝心の人」(資料053)なのであり、「朝野に/色々言つてやり度くそして安心/させ度候けれども■■■■■■■/■■自由を得ず」(資料323、■は検閲による削除)と、もどかしい思いを吐露しているのである。朝野自身、警察の監視下で転居を余儀なくされ、この年6月末から1週間綾部署に留置されるなど、過酷な生活に心身を疲弊させていた(9)。王仁三郎も「朝野/はこの侭にしておいたらヒスになる/かと 日頃案じてゐます」(資料328)と、彼女の体調に不安を感じていたことがわかる。また、11月には「私も朝野にはしか/られ梅のにはおこられてし/まひました・もうたよりも/みあはすつもりでおります/おやの心は今の人には中々/わかりません」(資料041)と記している。朝野に何を「しかられ」たのかは不明だが、王仁三郎は留守を預かる朝野らとの行き違いに心を痛めていたようだ。これらの資料は、王仁三郎と後継者・直日との関係性について考えるうえで示唆的であり、そこに垣間見える王仁三郎の“弱さ”は、宗教家としての彼の変化、もしくは多面性の理解にもつながる可能性がある。もちろん、今回紹介する書簡類から明らかにしうることには限界があるのだが、各所に分散して存在するであろう他の書簡が発見され、読み解きが進められれば、監獄における王仁三郎のイメージが明瞭に浮かび上がってくるのではないだろうか。

 王仁三郎の話が長くなったが、出口すみや出口新衛の書簡にも重要な歴史的意味がある。母・出口なおの筆先を彷彿させる独特の書体で書かれたすみの書簡からは、家族から送られてくる写真を楽しみに待つ獄中の暮らしがよく偲ばれるが、それだけではない。幼い孫娘に宛てた手紙のなかで、すみは「きよわめでたき/よきひなりせかいの/にほんにしたがうしるしび」(資料077)という歌を記している。日付は1942年2月18日、シンガポール陥落を受けて大東亜戦争戦勝祝賀第一次国民大会が開かれた日である。戦後、世界連邦運動を熱心に支持することになる彼女の、事件当時の戦争観を考えるうえで重要な資料だといえるだろう。

 一方、新衛は一般によく知られた人物とはいえないが、本資料群のなかで量的にもっとも多く、戦時期に獄中にあったひとりの人物の生活と思考のまとまった記録として貴重である。家族に対する思いのほか、短歌や読書、食養生、坐禅といった彼の関心事をめぐる記述も興味深い。監獄史におけるこれらの書簡の意義については、本資料集所収の兒玉圭司「監獄制度史(行刑史)研究からみた本史料の意義」を参照していただきたい。

 本資料集は、第Ⅰ部「解説編」と第Ⅱ部「資料編」から構成されている。資料編では、書簡の写真を一部掲載するとともに、とくに重要と思われる書簡を選んでその翻刻文を公開する。巻末には、すべての書簡資料の目録を掲載している。また、理解の便宜のため、出口家の略系図および関連の年表も付した。


 なお、本資料集は、文部科学省科学研究費補助金基盤研究(C)「複眼的視点からの大本教研究―データベース構築と国際宗教ネットワークの研究」(研究代表者:對馬路人、2015~2017年度、課題番号15K02068)、文部科学省科学研究費補助金基盤研究(B)「日本新宗教史像の再構築―アーカイブと研究者ネットワーク整備による基盤形成」(研究代表者:菊地暁、2018~2021年度、課題番号18H00614)による成果の一部である。



(1)たとえば村上重良『近代民衆宗教史の研究』法藏館、1958年、大本七十年史編纂会『大本七十年史』下巻、宗教法人大本、1967年、小池健治・西川重則・村上重良『宗教弾圧を語る』岩波新書、1978年、川村邦光『出口なお・王仁三郎―世界を水晶の世に致すぞよ』ミネルヴァ書房、2017年、など。また、本資料集所収の出口雄一「法制史の観点からみた第二次大本事件」も参照されたい。

(2)川村邦光「スティグマとカリスマの弁証法―教祖誕生をめぐる一試論」『宗教研究』253号、1982年、参照。

(3)永岡崇『宗教文化は誰のものか―大本弾圧事件と戦後日本』名古屋大学出版会、2020年、参照。

(4)木庭次守編『出口王仁三郎玉言集 新月の光(下)』八幡書店、2002年、参照。

(5)上田正昭編『出口王仁三郎著作集 第5巻』読売新聞社、1973年、232頁。

(6)同書、240・231頁。

(7)出口王仁三郎『水鏡―如是我聞』第二天声社、1928年、209頁。

(8)井上留五郎『暁の烏』天声社、1925年、参照。

(9)大本本部編『天地和合―大本三代教主出口直日の生涯』天声社、2015年、参照。




2020年11月26日木曜日

『宗教文化は誰のものか:大本弾圧事件と戦後日本』(発売中!)を(自分で)薦める(その3)

 (その2)を書いてから少々間が空いて、その間に本が発売された。書評サイトのAll Reviewsさんで「あとがき」の最初の部分を掲載してもらったので、よろしければご一読を。

このブログが売り上げにつながっている気配はとくにないが、とりあえず誰に迷惑をかけるわけでもなし、気が向くかぎりもう少しつづけてみようと思う。

夏ごろに出た『「ぞめき」の時空間と如来教:近世後期の救済論的転回』(法藏館)の著者石原和さんは、「民衆宗教」という概念を自覚的に引き受けて研究を進めている現代ではきわめて数少ない若手研究者であり、もっと数少ない如来教研究者でもある。さてこの本で、石原さんはこれまでの民衆宗教研究が教団という枠組みに縛られてきたことを批判している。たとえば最近は近世の宗教社会史の研究が大きく進展して、単一のカテゴリーに収まらない多様な宗教活動の実態が論じられているのに、如来教は「民衆宗教」という特異なカテゴリーに囲い込まれているせいでその潮流からとりのこされてしまっているという。それで、石原さんは如来教を近世名古屋の宗教社会のなかに位置づけて論じなおすことを提案するのである。

たしかに民衆宗教研究、あるいは新宗教研究も、教団単位で議論する(あるいは教祖を個人として切り取る)というクセからなかなか抜け出せない。僕はけっこう前から、教団の「内」の人と「外」の人との対話とか交渉とかという問題に関心をもっていて、いろいろと理屈をこねまわしてきた。現時点での見解が今回の本で示した「読みの運動」とか「協働表象」といった議論ということになるわけなのだが、こういう問題に意識が向かうのは、新宗教(あるいは民衆宗教)を対象としているから、というところはあるかもしれない。これまで自分がある程度くわしく調べてきたのは天理教と大本だが、その過程では教団の「中」の人間か、「外」の人間か、という点がつねに意識されているように思う(自分も、教団の人も、研究発表の聴衆や論文の読者も、それぞれにそれを意識しているのだ)。そうであるからこそ、「内」と「外」の境界線を越えるとか越えないとかつなぐとかつながないとかいうことに重要な意味があるように思うわけだ。

このことは、日本社会で長くマジョリティでありつづけてきた仏教の場合と比較すれば顕著だろう。京都観光で清水寺を訪れ、寺院墓地で先祖の墓に手を合わせても、「あの人、仏教徒らしいよ」などと意味ありげな陰口をささやかれることはない。したがって、たとえば親鸞や道元についてなにか書くとしても、「お前は仏教徒として書いているのか? そうでないのか?」と問いただされることは(たぶん)あまりないのではないだろうか。「内」と「外」の境界線がないわけではないけれども、新宗教・民衆宗教の場合にくらべれば曖昧なのである。とすれば、仏教史の研究者からすれば、「協働表象」うんぬんというようなことはたいして意味のない話となるのだろうか、あるいはまたべつの意味をもってくるだろうか。そのへんは、その筋の方々のご意見をうかがってみたいような気もする。

さきほどの石原さんに戻ると、彼は近代的な教団という枠組みが確立する以前、如来教(と後に呼ばれるようになるもの)が生成する場をとりあげることで、新たな民衆宗教研究の道筋を探ろうとしているのだろう。他方、本書はというと、むしろ教団という仕組み・制度が抜きがたく存在していることを前提としたうえで、その境界を動揺させ、流動化させる動きに注目している。方向は違えど、どちらも教団の枠組みを自明視した民衆宗教研究の乗り越えをめざしているのであり、それが現在の民衆宗教研究のトレンドなのだといえようか。

ただし、僕の場合は既存の民衆宗教研究や「民衆宗教」という概念そのものにたいしてかなり両義的な姿勢をとっている。教団によって提供された資料に依り、教祖の独創性・特異性を過度に強調したナラティヴに多くの問題があることはたしかなのだが、そこで語り出された近代へのクリティカルな視角をも否定してしまうのでは、たらいの水と一緒に赤子を流す、ということになりかねない。手前味噌だが、以前僕はある座談会でつぎのようにのべた。

従来のナラティヴ―マルクス主義でも、民衆史でも、一国史観でもよいのですが―を単純に廃棄するのではなく、それを読み抜いていくという作業をしなければ、人文学の批判性が失われ、素朴実証主義の泥沼にはまってしまうのではないかと。 (大谷栄一・菊地暁・永岡崇「座談会 日本宗教史像の再構築に向けて」『日本宗教史のキーワード:近代主義を超えて』慶応義塾大学出版会、2018年

そんなわけで本書で試みようとしたのは、自分なりに「民衆宗教」をめぐる言説を「読み抜いていくという作業」をつうじて、新たなかたちの権力論を構想することだった。ちょっと大げさか。でもまあ、少なくともその方向に歩き始めたということで。どんなふうに?ということについてはまた次回に。(つづく)

2020年10月20日火曜日

『宗教文化は誰のものか:大本弾圧事件と戦後日本』(発売中!)を(自分で)薦める(その2)

この本の内容を一番シンプルに表現するなら、副題の「大本弾圧事件と戦後日本」というのが適切だと思う。大本弾圧事件、いわゆる第一次・第二次大本事件は戦前の出来事なのだが、それを戦後日本という時空間のなかに置きなおして考えてみようというのがひとつのミソである。

大本は、近代日本の新宗教のなかでももっとも有名なもののひとつで、その歴史を分析した研究も多く存在しているのだが、そのほとんどは戦前で終わっている。出口なお・王仁三郎という二大カリスマ、そして二度の弾圧事件のインパクトが大きすぎて、戦後の歩みは後景化してしまっているのだ。しかし、なおや王仁三郎、弾圧事件などについての私たちのイメージは戦後に形づくられたものなのだから、それは戦後史の問題でもある。そのイメージの形成過程を追っていくと、信仰の有無を越えた多様な人びとが過去の記憶や戦後社会の矛盾と格闘し、新たな宗教文化を作り上げていったさまが浮かび上がってくる。

ここであらためて、版元ホームページの内容紹介文をあげておこう。

信仰の “内か外か” を越えて ——。最大の宗教弾圧事件の記憶は戦後、いかに読み直され、何を生み出してきたのか。教団による平和運動を導くとともに、アカデミアにおける「民衆宗教」像の核ともなった「邪宗門」言説の現代史から、多様な主体が交差する新たな宗教文化の捉え方を提示。

ここで「邪宗門」言説とあるのは、高橋和巳の小説『邪宗門』を念頭に置いたものである。全共闘世代の人には説明不要だと思うが、この作品で高橋は大本弾圧事件を元ネタにして架空の教団を造形し、国家の弾圧に翻弄された彼らが最終的に「邪宗」としてのレッテルをみずから引き受け、滅んでいく姿を描ききった。この作品に典型的にみられるように、大本は弾圧という出来事がもつドラマ性のゆえにこそ戦後社会の注目を集めた。その注目は教団の人びとを勇気づけもしたが、その一方で教団を困難な状況に導くことにもなるのである。本書は「邪宗門」言説を再生産しようとするものではなく、むしろ「邪宗」や「異端」を欲望するその言説自体の構築過程を問い、その歴史的存在性格を浮かび上がらせようとするものだ。

そのために、本書では信仰共同体の内と外、戦前と戦後をつなぎながら、広い意味での宗教文化の展開をとらえようと試みている。そのための方法的工夫が「読みの運動」と「協働表象」という自作の概念である。このうち「読みの運動」のほうは、前著『新宗教と総力戦』のなかでも実は出していた。出してはいたが、ほとんど注目されることもなく、まるで浸透していない。少々切ないが、無理のないところもあった。前著は天理教という一教団の歴史をひたすら追うものだったから、「読みの運動」といっても教団の構成員が先行する信仰者の遺産を読みなおして新たな信仰を生み出していくという、ごく当たり前のことを言っているにすぎなかったともいえる。わざわざ新たな概念を提起する必要性が伝わらなかったのではないかと思う。

言い訳がましくなることを承知で説明するなら、おそらくそれは前著が長い博士論文の前半部分を切り取って作りあげたものであったことに起因している。後半部は信仰共同体の枠を越えた宗教文化の広がりを扱おうとしたものであったから、「読みの運動」という概念ももう少し有効性を発揮したはずだったのである。とはいえもちろんそんなことは読む人には何の関係もない。前著における「読みの運動」概念の提示が中途半端に終わってしまったことは潔く認めるとして、今回の本では(その博論の後半部分をベースにしているため)もう少しそのあたりを充実させたつもりで、多少なりとも議論が進展していると思っていただけたらありがたく思う。

この「読みの運動」と「協働表象」の内容については本書をご覧いただきたいが、本書ではこうした概念をもちいて大本教団や信仰者の運動、アカデミアの民衆宗教研究、変態心理学や特高警察などの宗教イメージ、『邪宗門』を中心とした文学作品における宗教イメージなどを連関させて議論している。仏教研究を中心として、近代宗教史の分野では近年積極的にメディア論的な視点をとりこんで領域を広げており、本書もさしあたりその流れに掉さしたものということになるかもしれない。ただその場合、単にいろんな人がいろんなかたちで宗教のイメージを生み出していったのだということを示すだけではなくて、それらが互いに緊密に結びつきながら、複雑な齟齬・葛藤や捻じれ、絡まりあいを生じさせていったところに焦点をあわせたつもりである。それが成功しているかどうか、独自の問題系を提示できているかどうかは、読者のご判断にゆだねるしかないのだが。つづく。




2020年10月16日金曜日

『宗教文化は誰のものか:大本弾圧事件と戦後日本』(発売中!)を(自分で)薦める(その1)

というタイトルの本を出すことになった。すでに手元に届いたが、奥付は10月30日となっているので、書店等での発売はもう少し先のよう。2冊目の単著で、前の本から5年ぶりである。

前著のときは、あまり宣伝らしい宣伝をしなかった。Facebookで少し告知したぐらいか。面倒くさいというより、なんとなく照れくさいとかそういうレベルのことだった。しかし本をつくるのに自分以外のいろんな人が努力してくれているのにそんなことを言っている場合でもないということで、今回は多少なりとも宣伝を試みたい。ということで告知用にTwtterでもはじめようかとも思ったのだが、なんかウィット&ユーモアに富んだ短文を書かなければならないのではないかという自己検閲にさいなまれるような予感や、クソリプとか飛ばされたら困るなあという不安で、はじめる前から疲れてしまったので遺憾ながらTwitterプランは廃棄である。Facebookは前から一応やっているが、これもしばらく前からなんだか気が重くなってほとんど書きこまなくなってしまっている。タイムラインでベルトコンベア的に流れていってしまう感じがどうにも慣れないのである。

いや、べつにSNSについてどうでもいい雑感をのべたくてこれを書いているわけではないのだ。とにかく(脳内会議の末)なんやかやで最終的にブログという伝統的ツールがベストだということになった。自分的には一定の長さのある文章を書かないとどうにも落ち着きが悪いということがひとつ。そして、公開したからといっていちいち自動的に他人様のタイムラインにしゃしゃり出ることがない控えめさがいい。ひっそりとしていたいのである。そもそもこのブログの存在自体、リアルの知り合いをふくめてほとんど誰も知らないのではないだろうか。ひっそりとしていて宣伝の意味があるのかどうかが今回は問題となるわけだが、そこはのちの課題としておこう。

さて『宗教文化は誰のものか:大本弾圧事件と戦後日本』である。版元の紹介ページはコチラ。そこから目次を拝借すると、こういう構成になっている。

序章 大本弾圧事件の戦後
     1 事件の残骸
     2 〈事件〉が切りひらく世界
     3 読みの運動と解釈共同体
     4 協働表象が生じる場
     5 結節点としての大本七十年史編纂会
     6 本書の構成
     7 戦前期大本の歩み

第1章 戦後大本と「いまを積み込んだ過去」
      —— 前進と捻じれの平和運動
     はじめに
     1 大本の平和運動をとらえるためのふたつのスケール
     2 七王も八王も王が世界に在れば……
     3 出口伊佐男の世界連邦主義
     4 人類愛善-世界連邦運動の展開
     5 人類愛善-原水禁運動のはじまり
     6 出口榮二の平和思想
     7 人類愛善運動とアジア主義
     8 平和運動の軋み
     9 破 裂
     おわりに

第2章 〈事件〉をめぐる対話
     はじめに
     1 「神さまの摂理」としての〈事件〉
     2 大本邪教説の再構成
     3 予備調査へ
     4 〈事件〉をめぐる対話
     おわりに

第3章 宗教文化は誰のものか
     はじめに
     1 大本七十年史編纂会の形成
     2 “民衆宗教” という表象
     3 教祖の人間化
     4 戦争と平和
     5 〈事件〉は誰のものか
     6 『大本七十年史』とその後
     おわりに

第4章 “民衆” の原像
      —— 出口榮二と安丸良夫
     はじめに
     1 アイヌへのまなざし
     2 “土” の文化と縄文
     3 「万教同根」とアジア主義
     4 読みの運動のなかの『出口なお』
     5 無意識としての神
     6 筆先の「改編」
     7 “民衆” の原像
     おわりに

第5章 “民衆宗教” の物語の起源
      —— 教祖をめぐる欲望の系譜学
     はじめに
     1 新宗教研究と複数の経路
     2 単層的な教祖像
     3 深層への遡行
     おわりに

第6章 反倫理的協働の可能性
      —— 高橋和巳『邪宗門』を読む
     はじめに
     1 高橋和巳の衝動とひのもと救霊会
     2 ひのもと救霊会の構造
     3 〈事件〉の変奏
     4 協働の反倫理性
     おわりに

終章 批判的宗教文化への視角
     1 “いま” を生きる大本
     2 苦闘の軌跡へ
     3 捻じれた連続性
     4 “本質” をめぐる解釈闘争
     5 戦後社会のなかの “民衆宗教”
     6 分析的介入の課題

 註
 戦後大本関連年表
 あとがき
 図表一覧
 索 引


内容紹介としては、こんなふうに書いていただいている。
信仰の “内か外か” を越えて ——。最大の宗教弾圧事件の記憶は戦後、いかに読み直され、何を生み出してきたのか。教団による平和運動を導くとともに、アカデミアにおける「民衆宗教」像の核ともなった「邪宗門」言説の現代史から、多様な主体が交差する新たな宗教文化の捉え方を提示。
かぎられたスペースに中身を盛り込んでいただいているので、これだけでは具体的な内容をイメージしきれないかもしれない。というわけで、これからもう少し言葉をおぎないながら本書の魅力をお伝えしてみようと思う。が、はやくも少々疲れてしまったので、つづきは次回に! 宣伝なのに連載である。

2020年8月31日月曜日

 第2回 『〈宗教〉再考』精読会(その2)

2020年7月19日(月)19:30~22:00ぐらい Zoomでの開催

終わった後にすぐ書けばよいのにおっくうで書かないまま、ひと月以上経ってしまった。次回が近づいてきたのであわてて書くという、前回とまったく同じパターンである。そして内容を忘れ去っている。どうしようもないなと思いながら、論文を見返してわかる範囲で書き留めておきたい。

第1回につづいて、島薗進・鶴岡賀雄編『「宗教」再考』から論文2本を選んで読んだ。今回は論集の編者2人のものである。

(1)鶴岡賀雄「エリアーデ・レリギオースス」(担当:Kさん)

20世紀最大の宗教学者といわれながら、あるいはそれゆえに、「宗教」概念批判の論客たちから本質主義者として槍玉に挙げられることの多いミルチア・エリアーデ。エリアーデの宗教史をある種の「神学」として読むことで、宗教研究という営為を問いなおそうとする論文といえる。前回のところでも書いたが、深澤論文でいうところのポスト構造主義的な宗教言説の例といえるように思う。「宗教」をめぐる言説が政治性や価値の問題から逃れることができないという事実の確認にとどまらず、近代的な学知そのものに疑問符を突きつけようとするエリアーデの問題提起にどう応答するのかが問われている。

この会の参加者の場合、社会学や歴史学の方面から宗教を研究するという人の割合が高いので、こうした議論は少し異質に感じられたかもしれない。ただ、鶴岡が言うように、エリアーデの「神学」を批判するのであれば、社会科学的アプローチが拠って立つ諸前提もまた問われなければフェアではないだろう。エリアーデの主張を受け入れるかどうかというよりも、自分たちが受容し、生産しつつある宗教言説の存在性格を再考するためのきっかけとして、この論文を読むことができる。

(2)島薗進「近代日本における「宗教」概念の受容」(担当:Uさん)

内容はタイトルどおりで、著者の『国家神道と日本人』(岩波新書、2010年)につながる一連の論考のひとつ。近世から近代にかけての「宗教」をめぐる知識やポリティクスの転換が論じられている。ただ、参加者から意見が提出されたように、話が明治初年だけで終わっていて、「宗教」に関するさまざまな議論が噴出して複雑化するその後の展開が排除されているので、少々物足りなくはある。宗教概念論のひとつの論点は、西洋的なreligionに対応するものが日本の文脈でどのように受け入れられ、あるいは創出されていったのかということだが、それだけでは不充分である。そこから、さまざまなプレイヤー(宗教家や学者、政治家、役人、文学者などなど)の介入によってどのような屈折が生じたのかを問わなければならないだろう。島薗自身もふくめ、そうした問題群については現在進行形で検討が進められている。そうした試みとして、次回の星野靖二論文や福嶋信吉論文が重要になってくるだろう。


(2020年8月31日しるす)


2020年7月19日日曜日

近現代宗教史方法論の会(仮)のこと(1)

この5月に、10人あまりの仲間(スタート時点。この先増えるかもしれないし、減るかもしれない)と、そういう名前の勉強会を立ち上げた。本来的にはもうちょっと面白みのある名前にしたいところなのだが、いろいろ脳内で忖度していたらこんな感じになってしまった。あくまで(仮)である。
備忘録的に、これを始めるにいたった経緯と初志のようなものを書き留めておきたい。ただしこの文章はあくまで一個人の見解で、参加者の共通了解とかではありません。

まずは個人的な事情。
生まれてからずっと(2年だけ名古屋にいたのをのぞいて)慣れ親しんだ関西から去年東京に移ってきて、これから自分はなにをするのか。研究テーマ(ときどき別のこともやっているとはいえ、奈良の天理教と京都の大本がメイン)にしても、研究者とのつながりの面からしても、関西圏に張りつくようにしてやってきたところがあるので、なにかしら違う展開を考えるべきだろうということはしばらく前から頭の片隅にあった。もっとも、当面は今までの流れのつづきというか、宿題になっていることもいろいろあるので、いきなり別のなにかに切り替えるというわけにもいかないのだが。

つぎにやや集団的もしくは制度的な事情。
2018年度から4年間計画で始まった「日本新宗教史像の再構築:アーカイブと研究者ネットワーク整備による基盤形成」(代表・菊地暁さん)という科研に、研究分担者として参加させてもらっている。要はいろんな角度から日本の新宗教研究をアップデートしようという話なのだが、前提というか基礎的な作業として、「新宗教」の概念やら研究史やらを反省的に検討する必要がある。ひとりで論文を読んでもいいのだけれども、やはり各々の解釈をつきあわせて話し合う「場」があるに越したことはない。また、プロジェクトの「研究者ネットワーク整備」という点についていえば、すでに研究者としてある程度の自己形成を遂げた? 人たちをつなぐことも大事だろうが、研究者としての自分をこれからつくっていこうとする人たちのつながりを確保していくこと、場合によっては「場」を設けてそれをサポートしていくことが重要だと思う。というわけで、科研メンバーのHさん、Kさん、あと僕が呼びかけ人的な役割を担ってこの勉強会をはじめようということになった。

現役の大学院生をそう多く知っているわけでもないのだが、なんとなく垣間見るかぎりでは、じっくりとした勉強や議論の「場」が以前より確実に削られているように感じる。僕が大学院にいた2000年代にはすでにそういう気配があったのだと思うけれども、そのころから比べてもかなり状況は厳しい。専業研究者の再生産システムとしての機能が崩壊して久しく、真っ当に良い研究をしていれば食えるようになるという確信を誰も持てなくなっている(確信している人もいるだろうが、それはそういうシンキングの人と言った方がいいような気がする)。

かつてなら大学院進学を考えていたかもしれない大学4年生が卒論もそっちのけで就活に精力を傾け、かつてなら博士課程に進んだかもしれない修士課程生も就活に追われ、2年で完結するテーマを選ばざるをえないという状況になってしまっている。(いや、大学院という環境に慣れるのに何ヶ月かかかり、就活にもっと多くの時間と労力をとられるとしたら、修論に打ち込める時間は1年もないのではないか?)
博士課程の院生も、最近は3年で学位をとるよう強く推奨されているようだ(しかし誰のために?)。すくなくとも僕の感覚ではこれはいかにも慌ただしい(自分は博士課程に入ってから博論を出すまでが6年だった。その間ずっと博論のための準備をしていたのかというとそうでもないわけだが、無駄な時間だったかといえばそうでもない、と思う)。専門外の領域に手を出して火傷したりする余裕もないし、研究室で不毛な議論をたたかわせる暇もないような気がする。他方、社会人院生の存在が大学に新たな可能性をもたらすはずだが、生業との両立でもっと忙しいという人が多いだろう。

したがって、(1)研究職への就職に向けた見通しが悪く、(2)そのためもあって院生の数が減少し、(3)その少ない院生はつねに何かに追われているという三重苦が存在しているのだ(と思う)。大学や分野によっては多少マシな部分はあるのだろうが、五十歩百歩なのではないだろうか。

途中で何の話かわからなくなってきた。要するに、そういった環境のもとでは、院生やポスドクにとって研究というものがつまらなく感じられてくるのではないか、という危機感が僕にはあるということなのである。研究よりも面白いものごとが出てきてそちらに移るというのであれば、もちろんそれはそれでいいわけなのだが、もう少し環境がマシだったらもっと研究が面白くなっていただろうに……ということもけっこうあるのではないか、それは不幸なことなのではないか、という話である。

大学院生を取り巻く環境を改善する、ということにはいろんなレベルがある。一方で学費の無償化や研究助成の拡充、研究者雇用の創出・改善などが必要だろうし、他方で最近注目されている、在野研究の可能性を広げる環境づくりというものも今後は大事になってくると思う。
ただ、いまここで考えたいのはこれらとは少し違うレベルのことで、現在の状況下で若手の議論の「場」をいかに確保するのか、という課題についてである。ここからはもう少し個別的な文脈にそって話を進めよう。

(2020年7月19日しるす。まだつづく)